乳がんサバイバー 第10話 病理検査の結果 ステージⅢC
組織の病理検査結果が出た。
左胸の腫瘍は、なんと4・5センチの大きさの癌だった。 他にもいくつか見つかる。
脇の下のリンパ腺に3つ。 良くないと言われている胸の中のリンパ節に1つ。脇の下から全身へ広がるため、胸の中のリンパにもう進んでいるのは良くないのだと言われた。
もしかしたらステージⅡかもしれないと思っていたのがステージⅢになった。胸の中のリンパに転移していたため、数年後ステージⅢの中でもCという最も悪いものだと知った。
乳がんのステージは、腫瘍の大きさと広がり、そして、周辺のリンパ節やほかの臓器への転移の有無などによって、0、Ⅰ、ⅡA、ⅡB、ⅢA、ⅢB、ⅢC、Ⅳ期まで8段階に分けられる。
それによって5年、10年生存率が変わる。ステージⅡとⅢでは当時大きな違いがあって打ちのめされた。
胸骨の内側にも出来かけていて、取れなかった癌もあるらしい。これから抗癌剤で治療していくことになる。
それにしても4・5センチとは……みかんぐらいの大きさだ。そんなに大きな癌だったから触診で見逃されたのだった。
乳がんを触診で発見するときは(小豆大)が多いという。まさか(みかん)のような塊が癌腫瘍だったなんて、ベテランの医者も考えられなかったらしい。
「これは癌ではないと思う、大きすぎるもの」というドクターの声が頭に響く。
胸の半分くらいのゴツゴツした手触りが全部、乳がんだったのだ。
そしてまことしやかにまかり通っていた(癌は痛くない)というのも嘘だった。ズキズキと胸の奥の方から痛んでいた。
母乳が乳管に詰まる乳腺炎になったことがあるのだが、その痛みにそっくりだった。触った感じも似ていた。 母乳なんてとっくに出ていなかったのに、なぜだろうと思っていた。
6ヶ月以上かかる治療のため、夫はハワイの基地へ転勤することになり、ハワイに移り住むことになった。仕事に空きがあったのはラッキーだったと思う。 なんと同じ職場で上司として転勤してくる人の奥さんキャリーも同じくY基地で乳がんになってハワイに来ることになったのだった。
キャリーと私はその後友だちになり、長い闘病生活を支えあった。
キャリーは白人女性だ。長い金髪のカーリーへヤーをそれは大事にしていたので、抗癌剤だけは嫌だと言っていた。
乳がんは残酷な病気だと思う。 女性の象徴を次々に奪っていく。
北の在日基地から来ていた女性は、職種のあきがなく、ユタ州へ行くことになった。日本の基地に専門医がいなかったため、まずハワイに検査に来て、本国へ帰って行く。
私は日本に帰りたかった。 日本へ帰ったのは2012年のはじめ。 それまで3年間アイダホ州の田舎に住んでいてノイローゼのようになっていた。 乳がんはここでのストレスではないかと密かに考えていた。
アジア人はほとんどいない地区で保守的な場所だった。悲しい思いやつらい思いをした。
「日本に行きたい、帰りたい」日本への思いが爆発していた。 そうやって頑張った3年間、やっと帰れた日本でこんどは癌が発覚したのだった。
胸に痛みも違和感もあったのに、医師の「癌ではないと思う」という言葉を信じてしまった。それに日本では夫のいない日々が続き、まだ小学1年生だった息子を家に置いて病院へ行けなかった。基地内では当時10歳以下の子供を一人で留守番させるのは違法だったからだ。さらに一台しかなかったマンモグラフィーの機械が壊れていたりして、なかなか病院へ行けずに何か月もたってしまった。
その間に大きくなってしまった気がしてならなかった。