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乳がんサバイバー 第23話 放射線治療始まる。


8月の終わり。ついに放射線治療が始まった。

放射線治療とはものすごく簡単に言ってしまうと、残っている可能性のある癌細胞を放射線で(焼いてしまう)治療だ。

放射線は大好きなドクターSなので会えるのが楽しみだった。

一日目なので写真を撮り、放射線の位置を決めるのに1時間かかった。 ずっと裸なので寒くなってしまった。左腕も上げっぱなしで痛い。 胸に直接マジックでたくさん線を引かれた。

それだけでも驚いたのだが、なんと放射線を当てる印をタトゥーでいれたのだ。3つの点のタトゥ―。ちくり、ちくりと痛みがあった。

日本の本には(マークを消さないでください)と書いてある。タトウーでマークというのはいかにもアメリカだと思った。

ほくろよりも小さいが1つは今でも残っている。タトウー除去をする人もいるけれど、私はずっと取っておこうと思った。戦った証を戦士が自分に刻むようなイメージで誇らしい気持ちになる。

「しっかり焼かないとね、あなたの癌は結構攻撃的なのよ!」といって、なぜか私に怒る顔をする。思わず笑ってしまった。 

毎回何か面白いことを言ってくれる。 夫も息子もこの先生が大好きになった。

この放射線治療は33回続く。SFに出てくるような白い大きな機械の中に入るのでなんだか怖い。なんと毎日これが続くのだ。

受付で名前を言い、服を脱いで紙のチョッキのようなものを着て用意をする。 技師が着て放射線の機械を操作する。白い大きな筒の様なものに横になったまま入る。この時少し怖い。閉所恐怖症の人はできないのでは、と思った。30分だけど毎日なので大変だった。

数回目ですでに疲労感がでてきた。これは抗がん剤が残っているせいなのか、放射線のせいなのかわからなかった。今度の副作用は腹痛だ。お腹をこわす。
放射能被曝の本を読むと、被爆による症状は疲労感と下痢だと書いてあった。種類は違うのだろうけれど、軽い被爆なのかと思う。

最初は痛くもかゆくもないので喜んだのだが、回数を重ねるうちに日焼けのようになり、そのうち火傷のようになった。

治っていない切り傷の上からやけど。 もう本当にうんざりだった。

めげそうになった時は、
「身体の中に残っている癌も焼けてすごいダメージなんだ、やっつけているんだ」と思うことにした。

* * *

9月に入っていた。ハワイに来て6ヶ月間ずっと治療をしている。
家を引っ越すことが出来た。 息子は地元の小学校に通うことが出来た。
そして放射線治療も始まった。

だんだん抗癌剤が抜けてきたようだ。 髪の毛はまだフワフワの産毛だ。 眉毛のあった場所がうっすら青くなってきた。 それから、やっと短い睫毛がプツプツと生えてきていた。最初はゴミが付いているのかと思ったが、生えかけている睫毛だとわかった時は飛び上がるほど嬉しかった。

睫毛のない目はなんとも言えずに奇妙だ。縁取りがないと目はすごく小さく見える。

私のDNAはここに睫毛が生えていたことを覚えていてくれた。嬉しさと同時に人体の神秘を感じ、不思議な気もした。

病気をする前は髪を切ったら伸びる、眉毛を抜いたら生えるということが当たり前だと思っていた。でも当たり前だと思っていたことは実はすごく複雑なしくみなのかも知れない。世の中の当たり前のことも実はそうではないことも多いのだろう。

 毎日6時半に起きてランチを作り、朝食を作り息子を送り出してから放射線治療に行く日々だった。毎日放射線治療があるので、ほぼ同じような毎日だ。

10回目頃からかなり疲れが出てきた。 足の痛みはなくなったが手足はまだしびれていた。これは抗癌剤の副作用で、抜けて来たようでもしつこく身体の中に居座っていた。

食事も少しだけ変えている。家で作るときはなるべく健康的にしようと思う。それでも食材に限りがあるので洋食中心になってしまう。
肉が多いのでなるべく手に入る魚を買ったり、煮物ができなくてもせめて温野菜をとブロッコリーやアスパラガスを毎回食べていた。

息子の精神状態も安定してきた。 毎日宿題を見て、学校の話を聞いている。病気前の生活に戻りつつあった。いろいろな話を聞いてあげられる母親でいたいと思う。病気をして以来、気持ちが大きく変わった。前は子供のためにいろいろなことをしてきた。教育ママではなかったけれど、学校に関わりボランティアをして無理していたかもしれない。
今は親のする一番大事なことは健康で居て、精一杯の愛情を注ぐことだと思っている。
 
 ある日放射線が終わってドクターと話しをしていたら抗がん剤の部屋から呼び出しを受けた。何事かと思ったら新しい抗がん室に患者の手形を押すのだという。 

私とキャリーは手の平にカラフルなペンキを塗られて壁に手形を押した。 何の記念もなかったので嬉しかった。 奥の方にペタッと手形を押して日本語でありがとう。と書いた。キャリーは何か英語で書いていた。最初は少なかった手形が行くたびに多くなっていって、壁一面の手形は正直不気味だなと思った。一通り見渡すと胸の型を押している人までいて、その様子を想像して思わず笑ってしまった。

放射線治療でしょっちゅう病院へ行っていたのでキャンサーサバイバーの会に顔を出してみた。手術が終わってすぐの頃に行ってみたのだが、どうしても(サバイバー)という気持ちになれずに続けることが出来なかった。自己紹介をするのだが、皆私よりもステージが低いような気がして「初期だから、だからサバイバーなんじゃないの?」とふてくされたこともあった。

キャリーもあんなに泣いていたけれどステージ1だっだ。抗がん剤は4回だけで放射線もなしだ。彼女のために喜ぶべきなのに

「そんなに軽いんだ」とショックを受ける自分がいた。
誰かと比べてもしかたがないことはわかっていたけれど、いつも自分よりも(悪い乳がん)でも生きている人を探していたような気がする。

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