ラヴソング

【散文】

 

およそひと月ぶりに吉祥寺近江屋のテラス席で珈琲を飲む。アルコールではないのは今週の摂取量がキャパシティを超えたからだ。
空は均一の薄いグレー。朝から雨がパラパラと降っては止み、通りを歩く人びとは傘を手放せない。
シリーズ小説が二本、書きかけのまま止まっている。月で生まれた話と人の心の闇と闘う話だ。どちらも長らく書き続けているので世界観はできていて筆の馴染みはいいのだが、ふたつを同時に掲載したのが失敗だった。もともとそんなに器用ではないので、一つひとつ終わらせていかないといけないなと反省している。そのせいで新たな物語を書き始めたいのに書き出せない。仕事でも何でもそうだ。一つひとつ着地させていくことが大事だ。
この頃は古い映画ばかりを観ている。何度も観ていて次のシークエンスどころか、この後のカットはこうでセリフはこういう内容、とかなり細かなところまで頭に入っている。それでもくりかえし観てしまうのは、そうした作品たちが僕に対して強烈に訴えてくるからだ。
『ラヴソング』という映画がある。96年制作の香港映画だ。原題は甜蜜蜜といって、この映画の主題歌でもあるテレサ・テンの歌だ。
マギー・チャン、レオン・ライが主演で、大陸から香港にやってきたふたりが出会ってから10年の間の、気持ちの高まりや揺れをていねいに描く。その間に起こる香港返還、そして大陸出身者の心の拠り所でもあるテレサ・テンの死。変わりゆく香港とふたりの心向きが重なりあって、単なる恋愛映画の枠を超える。
もう十何度目かの鑑賞もまったく色褪せず、その都度、胸の奥底から何かが呼び起こされる。
そんな物語を書いてみたいと思っている。
さて、珈琲二杯で長居をした。空も明るくなってきたので井の頭公園へと足を向けてみる。

 

tamito

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#散文 #エッセイ #随筆 #映画 #ラヴソング

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