贖罪 痛

【小説】

 

 僕は薄暗い地下鉄の軌道を走っている。右手の先が火のように熱くて足が地面をとらえるたびに振動で激痛が走る。背後からはゴオと大量の水が迫ってきている。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 右手の人差し指と中指を枝切り鋏で切り落としたとき、大量に吹き出した血を浴びながら鴨が言った。
「あんた、よくやった! 驚いたよ、あんたにそんな勇気があったんだ。じゃあ、まずは一本いただくよ」
 切り落としたばかりの血まみれの僕の右手の人差し指を、鴨はパクッとついばみ、ずるずると飲み込んでゆく。
「これでいいだろう、さあ、彼女の居場所を教えてくれ!」
 鴨はペロッとくちばしのまわりの血を舐めあげる。
「ああ、死んだばかりの新鮮なエサはほんとうに旨いな。あんたたちも酒飲みながら新鮮な魚とか喰ってるだろ、それと同じだからな」
 左手で右の手首を高くかかげて血を止めようとするけど、痛みが酷くて居ても立ってもいられない。
「なあ、僕はいまそれどころじゃないんだ。いいから彼女の居場所を教えてくれ!」
「ああ、約束だからな。でも、その痛みをよく覚えておくんだな。心の痛みも身体の痛みも結局は同じなんだ。傷つけば痛い」
「はやく!」痛みが限界だった。
「ここにいるよ」
 え?
「ここと言ってもここじゃないけどな」
 鴨は右の羽根を真上にあげて天を見あげる。
「現実世界の森だよ。池の畔、そこにあの子はいる。だけど……」
 鴨が言いかけたとき、突然、ゴオという巨大な音が世界を支配した。
「来たよ。この世界が終わる。水没するんだ。だから急いだほうがいいよ」
 そういうと鴨は僕の中指をくわえて、そそくさと池に浮かび、そして水に潜った。
 ゴオという音はさらに大きくなってきている。僕は来た道を戻って地下鉄の軌道に出た。水の音は右側から聞こえる。僕は左に向けて走り出した。

 どこかに、地上にあがる出口があるはずだ、進む先の左右の壁に注意を払いながら、僕は激痛を堪えて走り続けた。
 血が止まらない。痛みは増すばかりだ。いまにも気を失うかもしれない。だけど、この代償を僕は活かしたい。地上への出口はどこにあるんだ。

「そこだ、その先の左の扉! その奥に地上につながる梯子がある」

「片岡?」
 いつの間にか片岡が僕の右側を並走していた。
「どこに行っていたんだ、僕はあの鴨に言われて指を二本も失ったんだ」
「いいから来い!」
 片岡の後に続いて扉のなかに入ると三畳ほどのスペースの突き当たりに、鉄製の錆びた梯子があった。後ろで片岡が扉をバタンと閉める。
「これで少しは水の侵入を防げる。さあ、登るんだ!」
 見あげると梯子の先は暗闇で、どこまでも続いているように見える。僕は梯子に左手をかける。まるで氷のように冷たい。右足をかけ、傷んだ右手で二つ先の段を掴んで思わず手を離す。
「無理だ! 痛くて掴めない。それに三本の指じゃ握力がない」
 片岡は色のない瞳で冷ややかにいう。
「では、きみはここで死ぬ。だがな、深い沼に沈む彼女を助けることができるのはきみだけなんだぜ。それをそんな簡単にあきらめてもらっては、死んだ僕の立つ瀬がない」
 色のない瞳からも片岡の言葉の奥にある熱量は十分に伝わってくる。僕は黙ってもう一度梯子に右手をかける。ツッ、痛みが全身を貫く。それでも僕は右手にあまり負担がかからないように一歩、また一歩と梯子を登り始めた。

 

 

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#小説 #贖罪

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