贖罪 青(最終回)

【小説】

 

 もうだいぶ登ったはずだ。
 上を見ても下を見ても暗闇しかない。どのくらいの時間が経ったのだろう。ただゴオという水の流れてゆく音だけが続いている。片岡はいつの間にかいなくなってしまった。いくら呼んでも返事がない。僕は真っ暗な空間にひとり、冷たく錆びた鉄の梯子にぶら下がって、少しずつ少しずつ地上を目指している。二本の指を落とした右手は感覚が麻痺してきて、痛みが薄れてきたのはいいが、梯子を掴めなくなってきている。だから手のかわりに腕を引っ掻けては左手でひとつ先のバーに手を伸ばす。登る速度が極端に遅くなった。

「片岡!」

 たまに叫ばないと正気が保てない。でも返事はない。頭のなかで呼びかけても同じだ。もうひとりの僕、片岡はほんとうにどこかへ行ってしまった。
 片岡、僕らはどうしてこんなことになってしまったんだろう。実はね、きみが死んだとき、僕は彼女とは別の女の子と寝ていたんだ。たまたま知り合った女の子だよ。笑顔のかわいらしいどこにでもいるふつうの子さ。僕はどうしようもなく心が渇いていて、誰でもいいから誰かの胸のなかで眠りたかったんだ。あの頃、そんなことが続いていた。そして、彼女を絶望的に傷つけたんだ。あれだけ寄り添い、重い荷物を預っておきながら、僕は突然その役割を放棄したんだ。

「なあ、片岡! なんとか言ってくれよ」

 僕の声が幾重にもこだまして、最後には水の流れる音に吸い込まれる。もう何分、何時間、こうしているのだろう。時間の感覚がまるでない。いまが春なのか秋なのか、昼なのか夜なのか、なぜ、こんなところにぶらさがっているのか、何もわからないし、そんなこともうどうでもよくなってきた。だけど、この梯子を放せばどこか深い穴に落ちてひどいめにあうことだけはわかっている。僕は完璧な孤独のなかでわずかに意識を保っていた。

「片岡!」

 続いて彼女の名を呼ぼうとして絶句した。僕は彼女の名前を思い出せなかった。そんなことがあるのだろうかとゆっくり頭を振り、記憶の襞の奥の奥まで探してみたが、欠片も思い出せない。そして絶望がやってきた。僕は彼女の顔さえも思い出すことができなかったのだ。いまにも狂いそうな頭を梯子にぶつけながら言葉にならない声をあげると、それが合図だったかのようにバンッと大きな音がして、大量の水が渦巻いて足下の暗闇に入り込んできた。

 僕は少しでも上を目指して左手を伸ばす。でもバーを掴むことができずにバランスを崩して左足が梯子から外れた。落ちる、と思った瞬間に意識が遠退く。薄まる意識のなかで、誰かが僕の左手をしっかり掴んだ。

 気がつくとぼんやり明るいなかで、僕は相変わらず梯子にぶらさがっていた。指を落とした右手が痛いし、全身が震えている。首をまわして後ろを見ると目の前に光の筋が数本ある。上を向くと光は小さな穴から漏れている。地上だ。左腕全体で肘を押すように力を入れると、ズズッと蓋が少し動いた。さらに手で掴みながら横にずらすと、目の前が光に包まれてホワイトアウトした。しばらく目を瞑りやりすごしてから僕はズルズルと這うようにマンホールから身体を地上に押し上げた。

 そこはどこかの街の大きな通り沿いの歩道だった。車が途切れることなく行き来し、歩道を歩く人たちは僕を遠巻きに一瞥して去ってゆく。
 仰向けに寝転びながら晴れた空を見た。真っ青に晴れ渡った雲ひとつない空。雨が、雨がやんだんだ。何ヵ月も降り続けていた雨がやんだ。歩く人たちは物質そのものの本来の色を日に照らし、自ら発色することはなかった。
 気づくと右手の痛みが消えていた。右手を顔の前に掲げてみると、そこには5本の指があった。何がなんだかわからなかった。そして、僕は数ヵ月ぶりに自然に呼吸をしていた。ずっと意識的に息を吸っては吐いていたのに、いまは肺の奥まで空気が滑らかに入ってゆく。
 僕は僕に起きたことを整理しようとしたが、ぼんやりした記憶の断片が浮かぶだけだった。ただ、ひとつだけ明らかなことがあった。それは、いまからあの森へ行き、池の畔にいる彼女に、会うことだった。彼女に会って何を話すべきかはわからない。まあいい、会えば言葉が出てくるはずだ。でも、もう少しだけ、もう少しだけ僕はこの光に包まれていたいんだ。この青い空の下で。

(完) 

 

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#小説 #贖罪

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