欠けた時刻 1

【小説】


父のしてきたことが正しかったのかどうか、僕にはいまだに判断がつかない。

この地球は人間が住みやすくなるために蝕まれ続けてきた。それは紛れもない事実だ。しかし僕たちはそうした産業の発展の上で日々の生活を営んでいる。それを否定するならば、衣食住のすべてを自らまかなうしかない。

実際に父が建てた僕の実家には、山から切り出した木や掘り出した石を砕いたコンクリートが使われていて、汚水や有害な煙を吐き出しながら作られた科学繊維の服を着て、最後には産業廃棄物になるしかない自動車に乗っている。

そんな生活をする者が声高に、環境破壊を説いたところで説得力はないだろう。中学、高校と父の活動を見聞きするにつけ、僕はそう思っていた。

自らも本を読みあさり、考えを巡らした。このままでいいはずはないと思いながらも、行動は思想に矛盾した。僕はデジタルではなく紙の本が好きだったから、敢えて高価な木材からできた雑誌や単行本を買った。食用に飼育された鶏や豚や牛を食べ、ときに食べきれずそれを残した。女の子へのプレゼントに金属のアクセサリーを買った。

そうした生活や心の潤いのために、僕は少なからず環境破壊に加担した。

父は確かに極力質素に生活しようと努力はしていた。しかし紙の本やパッケージ化された音楽メディアを愛していたし、何よりタバコを吸い続けていた。

父の思想と活動のせいで、僕はそうした矛盾を抱えながら多感な青春を過ごした。いや、まだ過去ではない。現在進行中の青春だ。


僕は昨年の春大学に進学し、環境問題をさらに学ぶためにバイオ系の学部に通っていた。学部は都心にある本校から電車で1時間半かかる緑豊かな田舎町にあった。近くには大きな沼があり、市が環境改善の施策を長らく実施していて、昔ながらの生態系を観察することができる。

僕はその沼地の東側の畔にあるベンチに腰をかけて、本を読むのが好きだった。春には梅が香り、夏には蛙が草むらをのそのそと歩き、秋には紅や黄に葉が色づき、冬には夕陽が木々の陰の向こうに沈んだ。

僕の座るベンチの前を、老夫婦が犬を連れて通りすぎ、子供たちが跳ぶように走り抜ける。僕はそこにいる限りこの世界の平安を信じることができた。

そして二年目の春、桜も一通り咲き終え、もともとは外来種だったというハナミヅキが咲きほころぶ頃、僕の特等席に見慣れぬ人が座っていた。

授業が終わり、図書館でしばらく本を物色してから僕はいつもの場所へと向かった。春特有の霞みが上空にかかり、日射しはやわらかく、やはり世界は平安だった。

そのベンチには、モデルのようにスラリとした肢体にショートカットの小さな顔の女の子が座り、頭を前に傾けて、大きな版型の本に目を落としていた。

僕は少し手前で立ち止まり、柵に手をついて沼を眺めた。

たまに、こういうことがある。たいていの場合は30分もしないうちに先客は席を立つ。僕はその間、沼を眺めたり、木々を見あげたりしながら、先客に悟られないよう遠巻きに席が空くのを待つ。

その日もしばらくはそうして時間を潰したが、彼女は立ち去る様子がなく、僕は仕方なく少し離れたベンチまで歩き、そこに腰を落ち着けた。

たっぷり2時間ほどを過ごしてから、帰りがけにそのベンチを見ると、彼女はまだ座って本を読んでいる。

どうやらこの場所を気にいってしまったな、と僕は少し残念な気持ちになり、その場を離れた。

それからしばらく、僕と彼女はそのベンチを代わる代わる使用することになった。彼女が先に座っている日には僕はほかのベンチに座り、彼女がいない日には僕が座った。

そんな席の取り合いもひと月以上が過ぎ、日射しは初夏の強さとなった。気づくと彼女はそのベンチに座ることがなくなった。僕は安心して特等席で寛げるはずだったが、いつでも空いているベンチにどこか落ち着かない気持ちを覚えた。いつの間にか僕は、彼女がベンチに座っていることを期待するようになっていた。

日射しが強くなったからかな、僕は鯉が跳ねるたびに光がきらめく沼を見た。


それから半月ほど経ち、雨の季節に入った。僕は沼のベンチの代わりに図書館に入り浸った。

図書館の書棚スペースの奥に、一ヵ所だけ明かり採りの小さな丸い窓が設けられていて、そこには古い木製の机と椅子が置かれていた。

ここを利用している人はほとんどなく、僕にとっては沼のベンチに次ぐ特等席だった。

沼から図書館へと定席を移動させて一週間ほど経ったころ、いつものように本を抱えて丸い窓の席へ向かうとそこには先客がいた。

僕はその後ろ姿を見て驚き、抱えた本をバラバラと床に落とした。

物音に気づいて彼女は振り向き、僕らは目を合わせた。

「あっ」と彼女が小さく声を発し、次の瞬間笑顔でこう言った。

「ごめんなさい」

えっ、何が「ごめんなさい」なのか、僕は意味がわからず、言葉につまった。

「ごめんなさい、あなたの席ですよね?」

彼女は当然のように席を立とうとする。僕は慌ててそれを制して言った。

「いえ、先に座っていたのだから、使ってください。その席は誰でも使っていいものだから」

ふいに窓からの光が強くなり、薄暗い書庫のなか彼女の顔を照らした。僕は彼女の顔を改めて見て、瞳が青いことに気づいた。

「あの、沼のベンチでもたぶん、あなたの席を取ってしまってましたよね」

「あのベンチに僕が座っていたのを知っていたの?」

「はい、わたしもあのベンチを気に入っていて、たびたびあなたが座って本を読んでいるのを見かけました」

「うん、僕も見かけた。だからきみが座っているときは、別のベンチを使ってた」

「あ、そうだったんですね。すみません、空いている日はてっきりあなたがいない日かと思ってました」

僕は彼女が座っていた席を指さして、「ここもよく使っているの?」と尋ねた。

彼女は明かり取りの窓を振り返り、答えた。

「ひと月ほど前にここを見つけてすぐに気に入って。でも、やっぱりあなたが前から使っていた場所なんですね」

僕は素直に「うん、そうなんだ」と答え、「でも、ここも沼のベンチ同様に誰のものでもないから、自由に使っていいんだよ」と言った。

「はい、ありがとうございます。でも今日はもう終わりにしますから、どうぞ座ってください」

彼女は荷物をまとめ、「では」と笑顔をつくり書庫の出口へと向かった。


ひとり残された僕は、木製の椅子に腰掛け、小さな丸い窓から外を眺めた。陽は照っているのに雨が降っている。いわゆる天気雨だ。昔ばなしのなかでは、キツネが嫁入りをすると言われる。

僕はキツネに化かされているのではないかと思った。現実にこんな偶然があるのだろうか。彼女は本当はキツネかなにかで、僕を化かしているのではないか。そういえば、彼女の容姿は人間離れして美しい。そんな女の子が僕みたいな男とこんな偶然に出会うはずがない。窓の外では雨脚が強くなり、陽の光を受けてキラキラと煌めいた。

それからも沼のベンチ同様に、僕らはその席を譲り合うように使った。僕らは図書館の書棚の前やキャンパス内で会えば挨拶をしたし、ときには立ち話もしたが、互いに名前さえ知らなかった。

僕が知り得た彼女の情報は、僕と同じ学科の一年生ということと、惑星開発に興味を持っているという2点だけだ。

惑星開発。父の最も忌み嫌う事業だ。実際に月面開発の際には、父や父の仲間たちはかなり過激な行動に出た。「月のウサギまで狩るのか」とかなり叙情的なコピーを掲げ、死傷者こそ出さなかったが、レジスタンス活動を月面でも繰り広げた。その影響でムーンベース開発は当初の予定から大幅に遅れたが、結局のところ開発を中止させるまでには至らなかった。父と仲間たちは公安に捕まり、3年の実刑を経て釈放されたが、今でも父のまわりには黒服の男たちの目が光っている。

僕も星や月を見るのは好きだが、そこに住みたいとは思わないし、父の影響ではないが開発そのものが間違ったことだと思っている。

だから、彼女が惑星開発に関する書物を手にしているのを見て、少しだけショックを受けた。彼女は将来「火星開発に関わりたい」と言った。僕はそのとき何も言わなかったが、できることならその理由を聞いてみたいと思った。

(続きを読む)


※この作品は、月にまつわる物語の連なり【38万キロの記憶】の一篇で、時間軸としては『晴れた日に起こる特別に良いこと』の後、『ムーン・チャイルド』の前となります。

#小説

tamito

作品一覧

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?