ムーン・チャイルド 前篇
【小説】
仕事が終わり、久し振りに馴染みのBarへと向かった。
わりと大きめのプロジェクトがつい先ほど一段落つき、会社を後にしても火照りが取れない脳を落ち着かせるために、アルコールの力が必要だった。
店は火曜の22時にしては比較的混んでいて、若いバーテンダーの橘に促され、ふたつ空いたカウンター席のひとつに腰を下ろした。
「藤沢さん、お久し振りです。マスターはしばらくあっちなんですよ」
コースターを差し出しながら、彼は右手の人差し指を上に向けた。
「ああ、あっちはあっちで競合も増えてきているみたいだからね」
僕はブラジルのビールを頼み、煙草に火をつけた。
いま、渋谷で煙草を吸えるBarは、この店を含め数件しかない。受動喫煙防止法の規制が厳しくなったのと、煙草自体の価格がこの春から大幅な値上がりをし、2千円を超えたことで喫煙者の数が激減したからだ。
橘はよく冷えたグラスとビールを並べ、灰皿をカウンターの奥の方から探し出してくれた。
「もう、すっかり喫煙者はいなくなったよね。マスターはまだ吸っているの?」
「はい。たぶんあの人は煙草が違法になってもどこかから仕入れてきて吸ってますよ」
橘は端正な顔立ちを魅力的に崩して笑顔をつくった。
彼は3年ほど前からこの店で働いている。大学卒業後に就職をせず、アルバイトをしながら音楽活動を続けている。
普段は木曜から土曜までの3日間、この店のカウンターに立つが、マスターが不在のときは店長代理として店を任されている。
目元に自然な色気を湛えていて、それは男の目から見てもわかる。
実際、彼の出勤が増えたことで明らかに女性客が多くなり、昔から通う者にとっては多少の違和感を覚える。
チリンと入口の扉が開き、橘がカウンターを出て迎えた。
20代半ばだろうか。仕立ての良いベージュのパンツスーツにショートカットの女性が立っている。スラリと背が高い。橘目当ての客だろうか。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
並んだ橘とほぼ同じ背丈だが、腰の位置が高いだけ彼女のほうが背が高く見える。
「はい」
予想外に大きな声が出たことで、彼女は少し俯いて目を伏せた。
「当店は禁煙ではないですが、よろしいですか?」
「はい、構いません」
「では、こちらのカウンター席へどうぞ」
橘は僕の隣の席を彼女に勧めた。
僕は吸いかけの煙草を揉み消し、灰皿を彼女が座る席から遠ざけるように置き直した。
席に腰をかけると彼女は突然僕に顔を向けた。
「ごめんなさい」
僕は彼女が何を言い出すのかわからず、黙って目を見つめた。
瞳が青みがかっている。濃いブラウンの縁取りに中央部がわずかに青い。コンタクトだろうか。
僕が呆然と瞳を見つめていると、彼女は言葉を続けた。
「ごめんなさい。煙草を途中で消させてしまって。煙草代お支払します」
「ああ」と僕は合点し、「いえ、気にしないでください」と返した。
「それと、私に遠慮せずに煙草を吸ってください。家族も吸っていましたので、気になりませんから」
と言って、彼女はバッグから財布を取りだし、100円玉を1枚カウンターに置いた。
僕は額に指を置きながらどうしたものかと考えた。
彼女はまっすぐ僕を見たまま何も言わない。
そこで橘がコースターを彼女の前に置きながら声をかけた。
「お飲みものは何にしますか? うちはワインがお勧めですが」
彼女は橘に向き直り、「ムーンビーチをください」ときっぱりと言った。
「あっ、ムーンビーチを知っているんでしたら、前にいらっしゃったことがあるんですね。あの、ムーンビーチはマスターしか作れないんですよ」
彼女は無表情のまま、「あなたには作れないのですか?」と訊いた。
「ええと、レシピは知っていますし試しに作ったこともあるのですが、すみません。あのカクテルはマスターが特別なお客様にだけ出しているんですよ。前にここで飲まれたのですか?」
「いえ、月のBarで飲みました」
「ああ、そうだったんですね。でも、どうしようかな、僕がお出ししていいものか・・・」
橘は僕に判断を委ねるようにこちらを見た。
僕はビールを飲み干し、ふたりを交互に見て提案した。
「じゃあ、こういうことでどうかな。彼女は僕の連れで、僕が無理を言ってムーンビーチをふたつ頼む。僕も橘くんの作るムーンビーチを飲んでみたいからね。後でもしマスターに叱られたら僕のせいにすればいい」
橘は安堵した表情を見せて、「藤沢さん、助かります」と両手を合わせた。
「君もそれでいいかな?」
彼女は無表情のまま何かを考えているようだったが、やがて口を開いた。
「ありがとうございます。では、そうさせてください。そして、あなたの分も支払わせてください」
「いや、僕は自分で飲む酒は自分で払うんです。それと煙草もね。これは僕の主義だから」
そう言って彼女の前に100円玉を返した。
「それが条件だから、そんな頑なにしていないで、そのコインをしまってください」
彼女はまたしばらく僕の目を見たあと、100円玉を拾い上げた。
「じゃあ、橘くん、よろしくね」
「はい、マスターの味にできるだけ近いものを作りますね」
橘がカクテルを準備しているところで、テーブル席からオーダーの声がかかった。
僕が目配せすると、橘は軽く会釈してホールへと向かった。
僕は彼女に話しかけてみた。
「月にはいつ頃いたのですか?」
彼女は僕に顔を向けて答えた。
「はい。生まれた時から15歳まで月にいました。それから地球で高校、大学と過ごして、その後、バイオ系の惑星開発企業に就職して、また月に戻りました」
「ああ、そうなんだ。月生まれもだいぶ増えているよね」
僕はなるべく表情を変えずにそう答えたが、月で生まれ育った子ども達が抱える問題は、ここ数年で顕在化している。
僕は目の前の青い瞳に吸い込まれるように、彼女を見つめた。
tamito
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