ムーン・チャイルド 後篇

【小説】

「今回の帰郷は仕事ですか?
あっ、帰郷とは言わないのかな、月で生まれた人にとっては」

明らかな失言だった。しかし、彼女は少しだけ左の眉に力を入れたあと、表情を和らげて語りだした。

「帰郷という言葉に違和感はありません。物心ついたときから、空を見上げればそこにはいつも青く輝く地球が見えていました。それに、父はいつも言ってくれました。『お前はここで生まれたけど、お前の故郷はあの青くて美しい星なんだよ』と。だから子どもの頃から『いつか帰りたい』とずっと思っていました」

彼女は1メートル先の中空を見つめるように話した。まるでそこに小さな地球が浮かんでいるかのように思え、僕も彼女の視線の先を見つめた。

「でも15歳で初めて地球に来たときは、何というか、少し複雑な気持ちでした」

彼女はふいに僕に顔を向け「月に行ったことはありますか」と訊いた。

「いや、ないよ」と答えると、彼女はまた目の前の小さな地球に視線を戻した。

「月は、月のドームのなかは整然として、ゴミもチリもなく空気がコントロールされていて、建物も道もすべてが機能的で美しい街なんです。でも草も木も花もすべてが精巧にできたダミーで、人間が安全に住めることだけを考えた街なんです」

「うん、『リスクのない完全な世界』がコンセプトだからね。ペットもすべてロボットだ」

「だから、初めて地球の港に降りて外気に触れたとき、驚いたんです。風が顔を撫でて、髪を揺らしてゆくことに。驚いて、自然と涙がこぼれました」

「それから父にいろいろなところに連れて行ってもらいました。世界中の都市と遺跡と偉大なる自然。そして、混乱しました。ここには善も悪も、美しいも醜いも、正しいも誤りも、あらゆる生き物の生も死も、すべてが混在して、混沌としている」

「父は言いました。『それが私たちの地球なんだよ』と。私はその後しばらく、高熱を出して病院の無菌室に入院していました。そして1週間ほどして熱が下がり、病院の屋上に出たとき、強い風が吹いていたんです。その時にすべてがわかった気がしました」

「大変遅くなりました。申し訳ありません。ムーンビーチです」

橘がグラスを彼女の前に置き、そして僕の前に置いた。

僕らはそれぞれにグラスを手にしてカクテルをひとくち飲んだ。

「このカクテルは、月でお父さんと飲んだのかな?」

僕はこれ以上話が核心に触れないように話題を変えた。

彼女はグラスを見つめながら言った。

「いえ、父が亡くなって、葬儀などすべてが終わった晩に、ひとりで月のBarで飲みました。マスターが『お疲れさま。よくひとりで頑張ったね』って、このカクテルを作ってくれて」

僕は言葉が選べずに、代わりに煙草に火をつけた。

「父にも一度だけ、このカクテルを出したことがあるとマスターは言っていました。まだ月のBarができる前に、このお店で」

「お父さんは、月に行く前からマスターの作った酒を飲んでいたんだね」

彼女は大きくひとつ息を吐いて、意識的に口角を持ち上げた。

「今回の帰郷は父の納骨が目的で、今日お寺に行ってお墓のなかに入れてもらいました。びっくりしました。お墓の下ってあんな風に小さな部屋があるんですね」

彼女はカクテルをひとくち飲んで話を続けた。

「そこには母もいました。そして、父もこれからずっとここに母と一緒にいるんだって思ったら、月に帰るのが悲しくなって。それで、このお店に来たんです」

僕は半分ほど残った煙草を灰皿でていねいに消し、カクテルを飲み干した。

「地球上では、すべてのものが失われて、また別のかたちで戻ってくる。そうして何百年、何千年、何万年と僕たちは繰り返してきた。善も悪も、美しいも醜いも、正しいも誤り
も、あらゆる生き物の生も死も、すべてがね」

彼女は今度は自然に口角を上げて、素敵な笑顔を僕に見せた。

「風が吹いてきました」

 

 

彼女とBarで会ってから半年が過ぎて、ムーンチャイルド問題はさらに大きな波紋を呼んだ。

人々が月に住める場所は、巨大なドームに覆われたムーンベースと呼ばれる街だけだ。すべてのリスクを排したそこは無菌室同然で、そこで生まれ育った子どもたちは、各種の菌に抗体を持たず、生物として長く生き残ることが困難な状況にある。最近では抗体を持たないこと以外にも短命の原因があると言われていて、今も研究が進んでいる。

ただ問題は、初期段階の月上出産において、実験的要素が強かったのではないか、という倫理上の問題が持ち上がったことだ。これについて証拠が見つかっただの、証言者が出ただの、いま、メディアが騒ぎ立てている。

当事者の気持ちを無視して。

彼女は、どうしているだろうか。

僕はここから38万キロ先に浮かぶ、白い月に思いを馳せた。

tamito

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