欠けた時刻 3

【小説】

はじめから読む

 

片岡と話した翌日の土曜日、僕はスーパーマーケットに買い物に行き、そこでばったり彼女と会った。

巨大な店舗の、陸上競技場のバックストレッチのように長い通路の端にいた彼女に僕は気づき、次の瞬間には僕の視線に彼女が応じた。

僕らは買い物袋をさげて沼の公園まで歩き、いつものベンチに二人で座った。

彼女はとても機嫌が良く、何か良いことがあったのかと僕は尋ねた。

「天気が良いから」とうれしそうに彼女は答え、少し考える様子を見せ、そしてこう切り出した。

「私、月で生まれたんです」

月のドームは雨も降らないし、強い日差しもない。そして風も吹かない。温度も湿度も窒素と酸素の比率も完全にコントロールされている。雑菌が生まれ繁殖する要素も99.9パーセント排除された〈リスクのない完全な世界〉だ。

「だから、地球へ来て天候の変化に驚いて、初めのうちは戸惑うことが多かったのだけど、いまはそれがとても自然なことに思えて。雨が木々や建物や公園のブランコや、ありとあらゆるものを濡らして、一方で、梅雨の晴れ間の夏の光がこんなにも生命力に満ちていて。だからこんな日はとてもうれしいんです。わかってもらえるでしょうか?」

〈あれは化けもんだ。純粋培養された化けもんさ〉昨日の片岡の言葉が頭をよぎる。僕は彼女の話を頭のどこかで斜に構えて聞いていた。

「もちろん、わかるよ。ムーンベースには行ったことはないけど、やっぱりあそこは不自然なところだと思うんだ」

彼女は僕から視線を外して自分の手を見た。まるでそこに月で生まれた印が刻まれているかのように。

「あ、誤解しないでほしいんだ。僕はきみを否定しているわけじゃなくて・・・」

「大丈夫です。わかってますから」

わずかに笑顔を作って、彼女はそれでも寂しげな青い瞳で僕を見る。

「あの場所が不自然だということも、惑星開発事業自体が神をも恐れぬ環境破壊行為だということも。子どものころから、反対派の人たちの主張を目にしてきたから。だけど・・・」

「だけど?」

彼女は言葉を慎重に選ぶように黙りこみ、しばらくして口を開いた。

「だけど、人は地球の寿命を自ら縮めて、どこに住もうとしているの? わたしたちが月に生まれたのには理由があるはずで、そしてその過程でたくさんの仲間たちが死んだ」

僕は彼女のやわらかく最も敏感なところに土足で踏み入れてしまったことに気づいたが、それはもう取り返しがつかなかった。

彼女のきれいな顔からは笑顔が消え、瞼に力を入れて、空を見つめている。見つめる先を追うとそこには白い月が浮かんでいた。

「ごめん、僕の不用意な言葉で君を傷つけた」

片岡の顔が浮かび、その顔に僕は罵声を浴びせた。

「僕は・・・僕は真実が知りたいと常に思ってる。なぜ、人は世界をこんなに複雑にしてしまったのか、なぜ、月で生まれた多くの子供たちが命を落とさなければならなかったのか、なぜ、人はほかの動物たちと違って自然と共生できなかったのか。僕は真実を知りたくて、だから、環境科学の勉強をしている」

雲が流れて日射しを遮った。彼女は水辺で餌をつつく白サギをぼんやりと見ている。おそらくは僕の言葉は彼女の心に届いていない。僕らはたまたま隣り合わせた見知らぬ者同士のように、手を伸ばせばすぐに触れられるほど側にいながら、地球と月ほどに心は離れていた。

それからも僕と彼女は図書館で席を譲りあいながら座り、学食ですれ違えば会釈をした。でも彼女と僕の距離は以前よりなお遠く、そして僕らはまだ互いの名前さえ知らなかった。

僕はやり場のない気持ちを勉強に没頭してごまかそうとした。教室で、図書館で、学食で、カフェで、初夏の日差しがまぶしい沼のベンチで・・・。

そうして梅雨があけて、盛夏がやってきた。

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※この作品は、月にまつわる物語の連なり【38万キロの記憶】の一篇で、時間軸としては『晴れた日に起こる特別に良いこと』の後、『ムーン・チャイルド』の前となります。

tamito

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