誰にも言えない

【シークエンス】

 

 その男の心のなかにはいくつもの部屋がある。
 入口付近にはきれいに整頓されたリビング。中ほどの部屋には本や音楽、映画などが壁に備えつけた棚にぎっしりと収まる。そしていちばん奥の部屋には鍵がかかっている。

 かつて、さまざな人が彼の心のなかを訪れた。
 ほとんどの人はリビングへと招かれ、窓からのやわらかな日差しをうけて土曜日の午後をコーヒーを飲みながら穏やかに過ごした。そのなかのごく限られた人は趣味の部屋まで通され、好きな小説や楽曲、映画について男との共通の話題に興じた。そしてまれにその奥の部屋に興味を持つ人がいて、男に尋ねた。

「ねぇ、あの部屋には何があるの?」
「ああ、何もないよ。それよりこの映画知ってる? たぶん、きみが好きな作品なんだ」
「ふーん」と言いながら勧められたDVDを手にして彼女は横目で奥の扉を見る。

 ある日、60年代のフランスの青春映画を観終えると、しばらく無言でいた彼女が突然口を開いた。
「わたしはもう何度もここを訪れて、リビングでお茶を飲んで、この部屋で本を読んだり音楽を聴いたり映画を観てきたよね」
「そうだね。ぼくはきみがこの場所に来てくれるたびにとても穏やかでやさしい気持ちになるよ」
「じゃあ、どうしてあの部屋に通してはくれないの?」
 男はわずかに右頬だけ表情を歪めて目を伏せる。
「あそこには入ってほしくないんだ。散らかっているからさ」
「散らかっているなら一緒に片付けない? だって、この先わたし、ここに住むかもしれないんだよ」
 彼女はまっすぐな目で男を見るが、彼の視線を捉えることはできない。

 またある日、男がリビングで昼食の準備をしているときに、彼女は我慢できずに奥の部屋の扉に手をかけた。でもその部屋には鍵がかかっていて、ガチャガチャと音をたてるだけで扉は開かない。
 彼女が呆然と開かない扉を見つめていると、背後から男が声をかけた。
「どうしてもその部屋に入りたいんだね」
 彼女は泣き出しそうになりながら言う。
「この部屋に入らない限り、わたしたちこれ以上進めないよ」
 男はしばらく考えてから書棚の奥に隠してある鍵を取りだし、彼女に手渡した。
「できればこのまま関係を続けたかったけど、やっぱりそうはいかないんだね」
 彼女は掌にのせられた冷たい鍵を見つめる。

 そこまで話をして、彼女は冷めたアールグレイを飲みほした。
「それで、その部屋には何があったのですか」
 僕は話の続きを促した。
 彼女は店のなかをぐるりと見わたしてから、視線を僕に戻した。
「例えば、このカフェにいる人たち全員が心のなかに鍵のかかった部屋を抱えていて、それを自覚している人や自覚していない人がいて、でも部屋の大きさや中にあるものの差はあるけど確実に、それはすべての人が抱えていて…」
「あなたも抱えていますか」
「はい、わたしも抱えていることに気づきました、あの部屋に入ったことで」
「それで、その部屋には何があったのですか」
 彼女は唇を濡らすようにコップの水に口をつけ、改めて姿勢をただして僕の目を見る。
「何もなかったんです」
「何もなかった」
「少なくともわたしには“何もなかったように見えた”」
「ほんとうは何かがあったと」
「何かがあることは感じたのです。でも、見ることはできなかった」
「そうですか、それでどうされました、その後」
「彼とはその後会わなくなりました」
「そうですか、それは残念でしたね」
「はい、いまとなってはあの扉を開けないまま、その先へと進むことができたんじゃないかと後悔をしています」

 その後すぐに彼女は席を立ち、僕はバッグから業務日誌を取り出して彼女の話をまとめた。そして彼女に言うべき言葉があったことに後から気づいた。

 人には決して誰にも言えないことが例外なくある。そして墓場まで持っていく覚悟でその部屋に鍵をかける。その鍵をあなたに渡したということは、その彼はほんとうにあなたと未来を共有するつもりだったんじゃないかと。だけど、それを言ったところでどうなるのかとも思う。タイムトラベラーが歴史を変えられないように、結局、僕は他人の話を聞き続けることしかできない。過去も未来も変えることはできないのだ。

 次の客があと三十分でやってくる。僕は彼女の話をもうひとつ別の部屋にしまい、鍵をかける。

 

 

※本作は、下記の作品と連なる「シークエンス」のシリーズ作品です。

清算
星を数えるように
僕はいつものカフェの窓にいる
青空の向こう

 

tamito

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