脱民族、脱宗教主義 人類主義

イスラエルとパレスチナの間で何十年と続いている、絶え間ない暴力の連鎖に対して、様々な要因があるといっても、宗教的、民族的、相違による断絶大きな理由であることを認めない人はいるのだろうか?

いや、それだけが理由ではないのはもちろんだが。この二つの違いを、互いが強調し合うことが、常に暴力をエスカレートさせていることは間違いないだろうし、それ以外の様々な要因が入り込む基本になっていると思う。

2国間、あるいは2集団による戦争=殺し合いが起こればどんな人権蹂躙でも当然起こるであろう、そう思っているから、そもそも戦争=殺し合い を認めた時点で、ほとんどの人権蹂躙、残虐行為は、付随するはずだ。

戦争における人道的ルールという言葉ほど、私の頭で疑問符が一斉にまたたく、変な言葉はない。例えばVR空間のみでの、殺し合い以外の戦争を発明するなら別だが。戦争が始まった時点で、結局のところ人道なんて綺麗事にすぎない。戦争そのものが非道なのだ。非人道的なのだ。残虐行為なのだから。

少なくとも死んだ人間にとっては人道どころではないし、逆に自分もきっと同じことをしたと、殺し合いに参加した時点で考えるしか無いはずだ。

つまり、人権侵害、残虐行為を、許さない=起きないようにするには、二つ、あるいは複数集団が戦争になる下地、要因を考えて、取り除くしか無いはずだ。

その主要な要因が、宗教と民族的相違に基づく、互いへの優越意識にあるのだから、人類全体が目指すべきは、脱宗教、脱民族的思考の上で、同じ人類として異なる集団が、共通の価値観を持つことが戦争を防ぐ手段だろう? それはあまりにも当然のことであって、集団の中心にあるのが、宗教や民族性であることこそが、本当は問題なのだ。

もちろん、それが集団としての、分布的に濃い文化的特色であるのは問題はないし、何らかの民族性や宗教性を、国が意識的に文化として守ろうとするのは構わない。だが、その民族の慣習や、その宗教の規約は、常に人類全体として共有できる単純な理念の下にあるべきだ。そしておそらく殆どの国が忘れているのは、国家とは結局は、人類の長い歴史の上で、たまたま作られた区分けすぎないということだろう。

日本という国家が、そしてその国家の国民=日本人が、脱民族主義脱宗教主義(それは、民族性や宗教を完全に捨てろとか廃止しろと言っているのではない。)を常に意識し、より大きな人類(おそらく私という個体が考える最大のグループであろう)を常に国家としての主題に考えて、人類が目指すべきあり方を探求し、挑戦するなら、素晴らしい事だと思う。

だが、それは日本独自の木造技術を使った、木製リングで、各民族、各国家エリアのうえを繋げましたなんていう、結局は自国文化を強調した多様性の理解ではない。

多様性はもう地球上に、嫌というほど十分にあるのだ。そんなの誰でも知っている認める認めないとかは問題ではない。事実人類として互いに存在しているのだから。本当に大事なのは、いかに多様性の違いを超えるかだろう。だからやはり、目指すべきは、脱民族、脱宗教、あるいは超民族超宗教であろう。それが人類主義だと思うし、私の考えるhumanismでもあります。



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