他民族、そして民族性を考える

 私は、自分の人生こそ最大限の価値を置く利己的な人間であり、だから本当なら日本に他民族の方が、様様な理由でやってきて地域コミュニティーができようが、それが「他者の生活を脅かしたりしない」、もしくは地域を彼らの民族のための地域へと変え、政府や自治体が、彼らの民族としての政治的圧力(つまり文化どうこうではなく、彼ら民族の政治的問題の解決のために、日本という国や、地域が使われるということ)を強く受けない限り、他人事だと思っている。

でも、実際に何が起こり得るかは予測がつく。まずおそらくだが、少なくとも皇族が日本の大部分を統治した時代から土着の日本民族が、本当の意味で他民族との共生という考え方に、馴染むとは、残念ながら思えない

いや、正直言うと、世界の多くの国で、多民族共生といいながら、それぞれの民族に基づく集団としての衝突を繰り返しているのだから、ようは日本でもそれが当たり前になるか、どうかだけの話でもあるのだが。

他民族の文化や生活様式を尊重しながら、互いに平和に幸せになどと、頭の中で考えるだけなら実に簡単なのだ。だが現実は、民族を意識した時点で、それは、個ではなく固有の属性を持つ集団になる。

他民族を尊重するというのは、一つの民族集団が、他民族集団の言語、文化、歴史、遺伝的容姿特性、そして歴史認識、時には宗教を尊重すると同時に、やがて「民族としての違い」を互いに際立たせることになる。

互いに満足できるだけの、食料、土地、居住スベース、経済圏、そして教育、これらを可能にする、職業があってこそ、互いに尊重しあえるはずだが、現実問題として起こるのは、結局は、一つの国家内での、集団としての権益争いである。

具体的には、土地であったり、公共での民族的活動、予算配分、職業分布、その他諸々だろう。

私が、日本人としての、民族性、歴史、日本独自の文化(間違いなく、自分の思考に影響を与えているのを否定しない)を、あまり声高に強調したいと思わないのも、自己の民族性を意識すればするほど、結局のところ、私達は集団としての、対立に巻き込まれるし、集団として互いの違いを強調することになるとしか、どう考えても思えないからだ。

もちろん、自分が民族性をあえて強調しないからと言って、他民族との争いが起こらないわけではない。 

結局はすべての個人が、民族は、個としてのキャラ属性程度にとどめておいて、民族より高次の集団としての属性、ファンタジー宗教めいているが、人類族とか、地球市民という、集団としてのアイデンティティーが強固になった一つの世界が、本来の理想であり、すべての民族が目指すべき世界であると、私はずっと考えている。

逆に言えば、そのような共通認識があって初めて、本当に、他民族共生が可能であり、それはとても、民族性が希薄になった世界であるとも思う。

つまりは、好きな時に好きなように、中華料理か、日本料理か、トルコ料理か、マクドナルドかみたいな感覚で、自分は元々日本料理をずっと食べてたのだが、今日は豚キムチ入りおにぎりを、オランダビールで流し込むみたいな感覚と言ったら、わかってもらえるだろうか?

あるいは、ゲームプレイする時に、最初は自分に近い民族属性の容姿でプレイし始め、途中で、ちょっと違う民族属性にあこがれて、使ってみるというような。あるいは仲良くなるNPCをMODでいじる時に自在に属性を変えてみたり、つまりは、個人が自在に触れてみたり、試してみたりできるような、(もちろんそれでも結局、ルーツに戻るかどうかはともかく)程度の、
民族性
であってほしいものだ。

もちろん、そんなことは、現状はどう考えても夢物語に過ぎないし、いきなりそんな世界が現れるわけではない。

だが、おそらくは共感する方も少なくないであろう、一つの目指すべきモデルがあるのに、すぐにかなわないからと、私という個人も、日本民族としてのホコリや、民族愛を意図的に強調することで、アイデンティティーを確認し、結果的には、他民族との軋轢を自ら作り出すよりは、あえて自分で抑えるだけ抑えて、ルーツとして紛れもなく持っていて、また理解していながら、より多くの、宗教というファンタジーを含んだ他民族性に興味を持つ方が、自分にとっては、正しい生き方に思えるのだ。

民族性が、学術的な目的や、文化としての継承、(実際問題、日本文化を日本人よりも理解している、あるいは愛している他民族ルーツの外国人は多いし、その逆もたくさんあるだろう。)で語られるのは、何の違和感もない。
(まぁ、自分個人が、それを強く求める訳では無いが、それをする人がいるからこそ、いつでも、学んだり楽しめるわけだから)

はたして、日本人ほど中国人は、三国志が好きなのだろうか?とか、なんでこんなに日本人は、ハリウッド映画が好きなのだとか、なんでこんなに、俺の日本語に、よくわからないカタカナが混じるのかとか、よくよく考えれば、民族の文化的融合はいたるところで起こっているわけだ。

民族意識は、せいぜいスポーツ等、競技としてのその時だけのグループ意識(まぁ、そういう目的設定は盛り上がる要素の一つだから、民族の違いを、エンターテイメントの中だけの対立構造として、あえて意識するのは、一つのたのしみかたとして間違っていないと思う。)にとどめておければいいと思う。

関西人、九州人、関東人、東北人、沖縄人というのが、ちょっとしたコミュニケーションでの属性説明や、せいぜい、互いに興味を持つためのきっかけにすぎず、だからといって、その違いで、互いを傷つけたり排斥するような違いにまで広がらないのは、結局は、土着的民族意識より高次の、国家としての民族意識が、集団としての属性で、知らないうちに、選択されているからだと思う。

それならば、、きっと、日本人も、韓国人も、中国人も、クルド人も、ユダヤ人も、ウクライナ人も、ロシア人も、アメリカ人も、世界の様々な民族集団が、より大きな人類族という定義こそ、自分たちのアイデンティティーとした時に、このくだらない民族間の対立や衝突は、最小化されるはずだ。

私はそのような未来を願っているから、自分はやはり、愛国心を叫んだり、強調したり、自分の属性として、強調したりしない。そんなのは、せいぜい、人生ゲームにおける、プレイヤーである私が持つ、多々の属性の一つ程度だ。あってもなくても困らない程度に、思っている。

(だからといって、民族性がなくなるわけではない。すでに、その民族集団の中で生活してきたのだから)

少なくとも、民族性を自分という個人の、アイデンティティーの中核には、これからも死ぬまでしないだろう。









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