性教育=公共 エロ=個人的欲求


 とある方の性教育に関する記事を見て、自分自身が感じていた一見相反する思考が整理できた気がする。そして、何故かその記事が訴えられていて、NOTE側が削除を要請したということなので、一体どの部分を誰が問題視したか、私は知りたいので、作者さんに確認を取って下にリンクを゙貼っておきます。いろんな視点が個人的に含まれると思ってますので、以前の記事を削除して、加筆、訂正し、再掲載しています。

訴訟等の詳細は作者さんのページの記事でご確認ください。現時点でNote側の対応に、思うところがありますが、(著名人かつ影響力の大きさか優先しているか?)私は当事者でないので、詳細がわからないから書きません。でも、私がリンクした記事の内容は、個人の否定とは思いません

https://note.com/rich_aster407/n/ned0e53ee670d

性教育(公共や社会で生活していくために、そしておそらく現代社会における全体の倫理や福祉にまつわる、学術的でもあり、情緒教育でもある、生体器官でカテゴリーにわかれざるを得ない、男女の関係を、知識のない未成年に正しく教える)

エロ(より個人的、公共とは実際関係ない。各個人が持つ、性癖、性欲を、満たすための様々なコンテンツ、あるいは相手とのプレイ内容)

私は何度言ってもいいのだが、ビジネスであるなしに関わらずエロは大好きである。エロなければ私個人は、人生はつまらないと思う。だからエロ産業に従事している人たちのビジネスを否定することは絶対にない。自分の好みに限りだが、そのビジネスの従事者が存在していることに、サービスの顧客として感謝している。 

自分自身AV男優という仕事を、本当に理解しないまま、バイト経験者の話を聞き、興味を持ったこともあるし、水商売という、多くの場合異性を抜きにしては語れない職種で、結構な長さで働いていた。

(もちろん、そのカテゴリーはとても広いのだが)

夢中になっているときは、自分にとって満足できる食事で食欲を満たすのと同じくらい、エロこそ己が生きる目的だとさえ思う。

一方で、私達が生きていくために、公共も常に存在する。そして、その公共の中で、違う性が常に存在していて、何らかの関係を必然的に持つ。それが個人的性愛に基づく関係になり、両者の合意があれば、次の世代をSEXで作り出す。(もちろんコントロールはするのだが)

何をエロで何を芸術と規定するかは、確かに個人的価値観だ。ところが、性教育においては、ルッキズムとか、個人の性癖とか、性産業の従事者としての知識、経験は本当にお呼びでないのである。全くお呼びでない。

性ビジネスの従事者である美男と美女の二人組が、(すでにこの時点でルッキズムは間違いないのだが)クラスにやってきて、絵を書きながら教えたほうが、未成年は一時的に喜ぶだろう。

だが、それはすでに、性癖を含んでいる。あるいは、自分たちの性的ビジネスから学んだ経験を、きっと授業に反映する。もしも、その必要がないなら、そもそも性的ビジネスの経験者を、性教育で呼ぶ必要も使う必要もないのである。

(真剣に、職業の選択肢として、業界での心構えなどを教えるのなら別だが、そもそも性産業自体、公共の教育で教えるべき事柄ではないと思う。それはそれを目指した人たちに、あくまで個別で教えられるべき事であり、少なくとも公共の教育として、考えるべきでは絶対にない)

私が、この性教育なら、自分も受けたかったし全く違和感がないと感じたのは、この映画での愛情の延長にある性教育を受けている生徒たちの真剣な眼差しや、教師の言葉から感じる倫理観と知性への信頼である。

マイケル・ムーア 世界侵略ノススメ

https://www.sonypictures.jp/he/2245700

実際にこの映画を見た後、こんな性教育なら、受けたかった。自分の子供にも受けさせたかったと感じた視聴者は多いと思うし、webで調べたら、同じような感想がいくらでも出てくる。

もしもAbemaの番組を見たことで性教育について、何がしかの知見を得たと感じる人がいるなら、いわゆるイデオロギー的なものは一旦除外して、上の映画を試聴して見て欲しい。性教育とは純粋に学問的であり、公共的な教育であり、その素晴らしさも感じるはずだ。性を子供に教えることの意味も、責任ある大人として考えるだろう。

性教育に本当に必要な物は、個々のルッキズムや、偏り、セックスプレイのレパートリー、性的コンテンツ従事者の、職業上の経験等ではないのだ。もちろん、それを教えるサービスが民間で(結局は個人レベルでの取捨選択)あっても、問題はないのだが、未成年、未経験者たちに公共が教育として伝える性教育のベースは違う。

異性に興味を持ち、関係を結ぶ時に、正しいリクエストの仕方、拒否の仕方を教え、互いを傷つけたりせず、思わぬ責任を背負いこむことのないように、性にまつわる躰の知識を正確に教え、(特に女性と男性の生理的差異)や避妊器具の種類や使い方を知らない男女に教えるのは、純粋に公共的な仕事なのである。

私みたいに古い世代の人間は、実地でとか、口伝で、つまり適当に先人の蓄積された正確な学術的知識はなくとも、恋愛、もしくは性欲にまかせて異性を探し、関係を持ち、性交してきたのだが、個々の性癖に基づく互いを喜ばせるテクニックなどではなく、本来公共において必要な知識、器官に基づく性差、日常生活における違いなんてのは、正確に教えられていたほうが、ずっと物事がうまく運んだだろう。

もちろん、自分が付き合った相手、あるいは諸先輩、あるいは知ったかぶりのエロ友に聞くのも一つの方法だろうが、そんな偏った方法では、公共に則さない。事実、ほとんどの若年層の、本人が意図していない、様々な性的事件や問題は、正しい公共としての性教育がベースにあり、その知識を持っていれば、全く変わったのではないか? 

性交が多い少ない、たくさんしたいけどチャンスがない。私は性交に興味がない。そんな違いは、少なくとも文明社会では気にしなくていい。そこに優劣なんてない。

だが、異なる性を持つものが、性交において互いを傷つけない方法、未成年がしょいきれない問題が「習っていなかった、知らなかった」という事で起こる様々な問題を避けるのも、性交という行為のシステムについて学ぶのも、本来は公共の福祉に沿う教育なのである。

これに関しては、性産業(性的コンテンツ)従事者は適任者ではない。公共にとっての教育は、絶対にビジネスの手段であるべきではないし、個人的性癖、性欲を満たすプロの知識など、性教育に必要ない

政治家に性産業従事者がなるのは、私は何の違和感もないけどね。(彼らのそのビジネスにおける様々な問題や、改善すべき点や、待遇の改善などは、あらゆる産業従事者と同じなのだから)

ただ、現時点での日本の性教育を考える場合、私が問題と思うのは、それに資する教育者(正確な生物学的知識と、倫理観のバランスがかなり高次で保たれていなければならないだろう)は、少なくとも男性にはものすごく少ないと、男性の私は思っている

いっそ海外のこの分野の先駆者の女性(おそらくそれは、保守が嫌いな社会民主主義国家が圧倒的に多いが)に最初は協力頂いたほうがいいだろう。(それを日本の教育者が、習うわけだ)

Abemaのような商業メディアがバラエティーの延長で、教育の専門家ではない芸能人や、性にまつわるという共通項だけでビジネスと教育をわざと混同し、セイテキコンテンツの当事者である人気AV女優で注目を集め、性教育を扱うのだけは本当に危惧してる。ましてや、それをゾーニングもせず見せる Abemaが、性教育を真剣に考えているとは私には到底思えない

もっともAV女優が関わるセイテキコンテンツの顧客でありオスの成人である自分よりも、むしろ同性や、実際の未成年の保護者からの率直な意見のほうが重要だろうが。ABEMAは話題作りになりさえすればいいのか?

以下は個人的、偏見?に基づく、率直な、自分が感じる日本の男性教育者の倫理観に感じていることである。

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俺は本当に同性の教育者のほとんどの性的モラルとか倫理観、教育者としての振る舞い(人生経験もろもろ)を、信用してないんだよ。

別に自分個人としては、子供がいないからOKなんですけどね。 とてもじゃないが、俺に娘がいたら、女性教員が多ければ多いほど安心するね。そしてなるべく男性教員は、本当にすまんのだが心の底から近づけたくない

もちろん、まぁ、それだけ自分のプライベート、自分で責任を完全に取れる物事においての、自分自身の性にまつわる倫理観が信用できないってことでもあるけど。今の男性教師(特に未成年を教育する立場の)の倫理観、道徳観なんぞ、本当にこれっぽちも信頼できないね。これで教師になって大丈夫なのか? 何らかのシャッフルテストいるんじゃないの?

と、いつも思ってる。

私は公共とプライベートを完全に切り分けれるけど、教育者はプライベートと公共を切り分けるのは、本当に難しいと思うよ。

常に生徒と日常的に接触するんだからね。

2023年 11月 25日 加筆 訂正

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