国籍や言語、土地、家、お金と、自分の命。どっちが大事ですか。
日本とは、一般国民が武装解除した国である。強制的にであれ、騙されたのであれ、少なくとも民主主義国家であるなら、現時点の国民の総意としては、「これで困らない」ということ。いや、たぶんこれほどうまく機能して、国民が肯定的に受け止めている、権力による統制は、いい意味で、そんなにないだろう。私も「一般国民が武装解除させられていてよかった」と心から感じている。
誰も、武器など本当は持つべきじゃないと、一般国民の多くは感じているはずだ。一方で、国民間での暴力を食い止めるために、自分の身を武器で守らないかわりに=他者を攻撃しないために、同意のもとで治安の管理を警察に委ねているわけだ。
戦争がなくなればいいのに、と考えると思うが、おそらくだが、それが達成された状態とは、「全人類規模での武装解除と、全人類規模で同意された組織による管理、統制が達成されたとき」だと思う。 ようは、私たちにとっての警察に変わる、全人類(国家)にとっての強力な軍事に関する統治機構が全国家の合意で形成され(あるいはその時存在している国家)、それがあるから、各国や、複数国家の連合体、は、単独では武装=軍事力を持ちたくてもできない、という前提だ。
現時点、そんなものはどこにもない。みんな、ある意味「好き放題」「自国の正義を振りかざして」やってるわけだ。なぜそうなるのか?
そもそもいかなる民族も、地域も、宗教も、そして国家も、結局は個人の集合体、寄せ集めだからだ。私がどこにも動けない。ここから絶対に移動できない(物理的にも、あるいはあらゆる意味で)動けば死んでしまうというなら、私はその民族や、地域、宗教、国家、住んでいる家、その地域に縛られるだろう。
それなら仕方ない。そこで、国家がどうだとか、言語がどうだとか、地域がどうだとかではなく、他の選択肢がない、それだけの理由で、自分のタメに、パートナーのためにあるいは、同居人のために、家族のために、イヤか好きかではなく戦うしか無いだろう。
だが、動けるのなら、さっさと動く。つまり、引っ越しでも移民でもするだろう。それで私の何か、アイデンティティーがなくなるなら、なくなればいい。構わない。
私が日本人であると差別されると言うなら、私は喜んで「日本人であることをやめます」私が日本語しか喋れないので差別されるなら、私は「日本語以外の言語も学びます」私が、日本の文化が好きで、プライベートで日本の慣習に沿った行動をしていて、それが気に食わないと差別されるのなら、まぁ、別に構わないと思う。もちろん、差別されたくないと思うけどね。
「逃げて回るか、闘うか」そんなのは、国とか地域とか文化とか民族のためではない。逃げることで、自分の命が守られるなら逃げる。自分の思考を守るために逃げる。
「自分の命ではなく国のために自ら戦うという人がいるのは構わないが、もしも戦うように強制されるなら、それは悲劇である。私が戦うべきなのは、そのような強制を行う、国家だろう」
「命が大事なら、戦うより逃げろ。私はそう思うし、命が大事だという人には、それを心から薦める。」
実行力のある=戦争という解決策を互いに放棄するような、何の合意形成もなされず、一部の人達(国家)だけが潤い繁栄し続ける、現代の国際社会、そしてそのような人たち(自分も含めてだが)の集団に過ぎない国家などという一グループのために、大切な自分の命を犠牲にする気は毛頭ない。
国ごときのために、互いに殺し合うなんて、私達全人類の先祖に、申し訳が立たない。(お猿さんみたいな原人さんだね)
まぁ、自分の命より大事な国とやらのために、国歌でも、国旗でも、歌うなり見るなり、オナニーするなり好きにして。そして象徴とやらを大切にして、何かが守られたような気になっていてください。まぁ、死んじゃったら、守られたかどうかも実際、本人はわからないと思うけどね。誰かが、祀ったり飾ったり、してくれるでしょうけど。
死んでしまった私は無になってるので、どう思うか以前に、何も思わないのだから。
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