法律的に罪を償っても、罪を犯したという事実は絶対に消えない

 罪を犯した人と、犯さない人が、同じように扱われるべきだとは、私は絶対に思わない。 刑に服したからと同じように扱うことをあらゆる意味で法律が強制することは絶対にすべきでない。

同じ人間だから人権は当然ある。国もそれは保証するだろう。そして、どんな罪であっても、背景は考慮されるだろう。実際問題として、法律で罪を犯していようが、法律で裁かれなかった罪を平気で犯し続けている人よりも、ずっと尊敬でき、共感でき、好感を持てる人も多い。

だが、それでも、罪を犯したという事実が消えるわけではない。個人的に許すとか、気にしないとか、もう刑罰を受けたから法律上は罪を償ったとしても、他者がそう思うかどうかは、他者に委ねられている

あなたが許したからと言って、私が許すとは限らないし、私が許したからと言って社会が許すべきだとは思わない

罪を犯す人が出てくるような社会に問題があるのは事実だ。

何の理由もなく罪を犯す人もいるかも知れないが、ほとんどの人は背景があり、理由がある。他者から愛情をうけなかったから、あるいは精神的に病んでしまったから。誰も助けてくれなかったから。 本当なら、少しだけ周りが助けていれば、罪を犯さなかったかもしれない。

だから、少しでも罪を犯す人が出ないような社会を作る、互いに助け合おうと様々な努力をするのは、個人的に正しいと思う。一方で罪を犯した人を、罪を犯さなかった人と、同じように扱うことは、自分は絶対にできない。まして、それが成人ならなおさらだ。

社会を良くしようと努力する。少しでも(どんな人に対しても)優しい社会になるよう、互いに思いやる。大賛成だ。自分のできる範囲でそうありたいし、そうであるように自分なりに努めている。だが何事にも優先順位がある。国という共同体とその共同体の参加者が行うべき優先順位と、守るべきルールが有る。

罪を犯し、刑に服した人の残りの人生」よりも、「被害者を救う、被害者の悲しみを少しでも癒す」ほうが、ずっと大事だ。そして、「罪を犯さず、ただ苦しんでいる人を助ける」ことも、「罪を犯した人の更生を助ける」よりも優先されるべきだ。

死刑廃止に、私は絶対に賛成しない人を裁けるのは神だけだなんて言う人がいるが、人が人の罪を裁かなければ、一体誰が裁いてくれるというのだろうか。その責任を人が放棄するなら、(人を殺した人を社会が同じように扱うべきで、人を殺しても社会が生存を許す)なら、刑法なんていらないとすら思う。

例えば、自分が大切な人を殺されたなら、私は殺した人の背景がどうであれ、理由がどうであれ、殺した人間を社会が裁いてくれないなら、残りの人生全てを、大切な人を殺した人間を、少しでも早く、自分が想像できうる最大限の苦しみを与え、殺すために費やすだろう。それは自分のためだが。

自分の大切な人を、意図して殺めた人が許されるような社会、公共は私という個人にとって、どうでもいい社会であり、公共だからだ。

何が人権だ、クソ喰らえだと、絶対に思う。そういう社会、国であってほしくないから、人権を大切だと思うからこそ、社会の義務として死刑という極刑は必要だと思っている。



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