見出し画像

拝啓、どうしようもないときの私へ

どうしようもないときがある。

周りが元気に働いていること、活躍していること、キラキラしていること。
すべてが自分への攻撃になる時がある。
私は元気に働けていない、活躍できていない、全然キラキラしていない…。
周りを賞賛したいのに、声が出ない。嫉妬と、自分への卑下に変わってしまう。

「今ちょっとネガティブな状態なんだ。いつか元気になれば、私も同じように活躍できるから」
と、もう1人のメタな自分が、絶望している自分に囁いてくる。

「それはわかってるよ。わかってるんだけど、動けないし、苦しいんだって」
絶望している自分が答える。

スマホの画面から目を外して、突っ伏していると涙が出てきた。

「どうしてこんなにダメなんだろう」
「なんで自分ばっかりこんな状態になってしまうんだろう」

メタな自分が引っ込んでしまうと、もう涙が止まらない。

***

どうしようもないときがある。

マインドフルネスとか、走ってみるとか、本を読んだりとか、
結構いろいろなことをやったけど、あまり効いている感じはしなかった。

感情的になると周りを困らせるので、なるべく迷惑をかけないように感情を発散する術を身につけようと必死だった。

仕事中に気持ちが溢れて、泣きそうになるのを堪えながら、メモにその気持ちを書き殴っているときもあった。

あぁ、今日もあんまり仕事できてないなぁ。

***

どうしようもないときがある。

元気になった今も、もしまたこの状態になったらどうしようと、よく思う。

また、ささいなことで怒って困らせてしまうのだろうか。
また、誰かに気づいて欲しいけど誰にも知られたくない悲しい感情を抱えたまま、外へ出て1人で泣くのだろうか。
また、ぶつけてしまったあとに後悔するのだろうか。
また、受け入れられなかった時のとてつもない恐怖を感じるのだろうか。

誰にでもなりうるものだと思う。

なったことがないときは、自分はならないと思っていた。
どこかで、自分は元気で、なった人と自分は違うと線を引いていた自分がいた。
そんな自分がいたことも、なんだかショックだった。

あなたもなるかもしれないんだよって、健康な人に訴えていた。
そこにいた健康な人は、かつての自分だった。

でも、自分がなったから、その線は無くなったかもしれない。それは、落ち込むこと以上に良かったことかもと、今だから思える。

***

戻ってこれたあとは、意外にも以前と変わらなかった。

あのときはちょっとハレモノとして扱われていたけど、普通に戻った。
ぶつけて受け入れられなかった時はショックだったけど、あの時感じた自分への否定は、別に全ての自分への否定ではないとわかった。

私はうつ病と診断されたわけではなかったし長い期間不安定だったわけではないけど、私には別人格が発生したような”異常事態”の期間だった。

どうして不安定から復帰できたのかよくわからないけど、(物理的な)働く場所を変えたり、関わる人が以前より以前より増えたことが主な要因と思う。

***

どうしようもないときがある。

そんなときは、想像してみてほしい。
あなたの大切な仲間の調子が悪かったら、どんな風に思う?

あいつは使えないなんて思うだろうか?
あいつは嫌な奴だと思うだろうか?

きっと、仲間の役割の大きさを感じて感謝しているに違いない。
何か自分にできることはないだろうかと、仲間に対して考えるだろう。

それを、少しでも自分に向けてあげること。

可能な限り自分に優しくしてあげてほしい。
周りに多少迷惑をかけても、自分を許してあげてほしい。
休んでいることは、悪でもなんでもなく善であると考えてほしい。
嫉妬することは至極普通のことだから、自分を悪いやつなんて思わなくていい。
帰る場所は、変わらずに待ってくれていると、信じてほしい。

落ちていた時の自分、未来の自分がまた不安定になるときがきたら、
こんな言葉を贈りたい。

***

このnoteは、cotree advent noteの14日目の投稿です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?