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柔軟性と二面性

自分語り👂
🪿(私)が言葉を使って出力するとき、自分の脳みそが伝えたいイメージと言葉🍁は全く別に存在していて、彼らは全くの他人で、私は言葉によろしく頼んでる感覚で字を打っている。そうでない人もいると僕は常々感じているが、これは僕の世界の捉え方がもたらす感想だから、きっと事実ではない。きっと事実ではない、これも感想。事実かもしれない。
僕がものを考えるときの様子を言葉にすると、音色と代名詞の羅列。それを言葉に翻訳するのは紛れもなく僕で、そこには責任もある。それにしては言葉は客観的すぎて、僕は常に攻撃をくらっている。少々フェアじゃない。私が言葉を使うとき、言葉も、傷つく、べきなのに、あいつらは鋼になったりダイヤモンドになったりマシュマロになったりグルテンになったりして、僕が投げる凶器を綺麗に躱す。
じゃあ僕の凶器はどこへ行くかって、相手だ。その傷はある意味僕の意思であるともいえる。
御免。私が言葉を飼い慣らせないばかりに、なんて思いたくはないという悪魔的側面が僕にはある。だけど、それを悪魔的だと言う天使的側面もまたある。

社会のしきたりというか
当たり前の翻訳だったり、社会にとって上手い具合に作り上げられた考え方の型があるのは知っている。線路があるのも信号があるのも知っている。それが具体的にどのようなモノであるか実践的な場面も理解していないといけないと感じる。たまに忘れる。常に呆れる。
そして思い出したとき、新たに知ったときのかなしみが、同時に私が私だと実感するときの材料でもある。
あと、やさしいと思うこと。

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