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うまうまゆで卵
それにしてもゆで卵はおいしいなあ
塩をかけて食べるのが一番おいしいなあ
ところで、
お互いの好きと好きの必然性は、お互いに見えない。
相手が自分を好きかということ。自分が相手を好きかということ。
そこになにか法則があるとしても、それが見えてしまったら好きにときめきは付随しないだろうと思う。
私はときめくために好きになる。
たまに、見えたと錯覚することがある
どういうときか、それは。
日曜日の朝とか、幸せそうな植物園とか、街をずんずん進むときだ。それは、楽しいけど、悪(あく)き行為!
罪悪感によっておいしさがにじむこともない。
ときめく という単語からなにを想像した?
私はいくつもの角を持ったトゲトゲの光が縦横無尽に飛び回り消えたり見えたりする様子。(を想像するよ。)
そして私がその映像にあとから特別に追加した意味は、完全な善に所属しているものではない。
そのトゲトゲの光は、幸せなクリスマスツリーの星ではないということ。
それは、いくつもの鋭角をもったトゲトゲの光。
ときたま残酷に、ときたま美しくなる。
私はときめきが欲しいわけじゃない。
もんだいは別のなにかが同時にとなりに居るときでないと生きない
すると別のなにかは良い者(マシ者)になる
ずるいし勝手だし残酷
この状況を産むのは、視点(自分の脳みそ)だ
いくつもの感情といくつもの自分とぜんぶ仲良したい
ぜんぶがぜんぶと喧嘩している
ぜんぶがぜんぶと反対している むっ!
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