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ための自己紹介④2年で退職した放射線技師は新宿のベンチャーに入った

「為本くんは・・・放射線技師ではありません」

ある時、働いてた医療系ベンチャーでこんなことを言われました。

当時私は診療放射線技師の専門学校に通っていた学生でしたが、学生の経験だけでは嫌だと思い、思いつく限り色んなことをやっていました。

前回の記事で書いた「Co-med Cafe」を中心に、様々な人と交流を深めて、病院で「医療ITカンファレンス」というイベントを日大病院で眼科の先生と共同主催したり、定期的に人を呼んで交流会をしていたからです。

あんまりそんな専門学校生はいないでしょう。実際、他のIT系学科の子と友達になり、今でもLINEしたりしています。

私は色んな人と交流することが好きだったんだと思います。

放射線技師らしくない人はやっぱり2年で辞めちゃった

しかし、放射線技師としてうまくいくのかは全然わかりませんでした。

正直なところ、「またダメかもしれない、、」と思っていました。

なので、人より異常に仕事が出来るアピールをしなければいけない、でないと認めてもらえないという変なプレッシャーを感じていました。

今思えば、もっと普通にしてれば良かったのに・・と思いますが、なかなか上手くいかないものですね笑

その辺りのことはマンガに描きましたので、良かったら読んでみてください。

同人書籍も部数限定で販売しています。

病院では、色んな方がおり、色んな人間模様が見られて面白かったです。

放射線技師は、看護師さんや医師、MEさんなどとコミュニケーションをとることが多いです。また、扱う医療機器が検査ごとに様々なため、それぞれの得意領域を活かすことができます。

一般撮影は昔気質の人が多かったり、CTやMRIは新しいもの好きの方が多かったりします。アンギオはコミュニケーションが重要みたいで、モテる人がやっていることが多い印象でした。あくまで印象です。

私は本当はMRIに憧れていて、シーケンスの研究とか極めたらかっこいいだろうな、とずっと思っていたのですが、MRIほど危機管理が重要なものもないくらいで、なかなか立ち会うチャンスは無かったです。

実は隠れてWebライターをしていた

その間、実は別の仕事も掛け持ちをしていました。卓球が好きだった私は、大学の卓球部の先輩から「一緒にやらないか」と誘われて、メディア事業に関わることになります。

そこで、1年半かけて40本くらい記事を書かせてもらいました。病院の仕事が終わってから、卓球場の取材に行ったり、土日に試合会場まで足を運んで、話を聞きに行ったりなどしていました。


当時の様子:病院勤務の後に、卓球の仕事へ

ペンネームの座間辰弘は、大学の時にお世話になった三田村宗明コーチの

運営している卓球場に因んで名付けました。

ちょうどその頃、みなとみらいの方でバタフライと中目卓球ラウンジが組んでカフェを始めたタイミングで、オープニングの手伝いなどもしていました。

本職がダメだった中で、好きな仕事が掛け持ちできていたことが心の支えになっていました。

急に社長に声をかけられた私


私は、タイトルの通り、2年で退職することになります。

しかし、退職届を出したのが2月中旬頃で、3月退職までに次の就職先を決めなければいけませんでした。

放射線技師から医療系メーカーに入る人もいましたが、2年の臨床経験では全然足りないです。そこで、ライターの経験を活かし、医療機器を紹介している雑誌出版社も受けましたが、落ちてしまいました。

また、以前働いていたベンチャーも当たってみましたが、当時は枠がないということで、もう行けるところが無い状態でした。

困ったな、と思っていた時、たまたま私のスマートフォンに通知が飛びます。

それは、ある会社の社長さんからの連絡でした。

ベンチャーに興味があった私は、専門学生の頃に、ある会社がユニークなプロダクトを沢山取り扱っているのが気になっていて、アルバイトの募集に面接に行きました。

社内の工房の中で、代表と30分くらい面談をしましたが、放射線技師を目指している学生を取る感じでは全然無かったと思います。IoTハードウェア製品を扱っている会社だったため、高いエンジニアリングスキルが必要でした。

もう縁がないなと思っていたその会社の社長から、急に連絡が来たのです。びっくりしました。

私は、そこで何故か「コミュニティマネージャー」という肩書きで採用担当をやることになります笑

⑤につづく



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