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分からないことに向き合う

ジル・ドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』をみんなで読む、連続対話講座に参加しました。

そこでの学びと考えたことについて、折角なのでnoteに言語化しておきたいと思います。主に、最後の「お疲れさま会」で共有した感想のまとめになります。まとまりのない、まとめですが。
(※スピノザの言葉を使ってみることで理解に近づくということで、自分なりに使ってみました。)

①「分からない」から「分かったつもり」にならない

文章を読んでも、何ひとつ理解できない。

講座はそんなスタートでした。

みんなでたった4〜5行ほどの文章を何時間もかけて読みました(とくに39ページの後半の文章を)。

それは、テキストに誠実に向き合って、それぞれの解釈をぶつけ合って、スピノザの思考に触れるプロセスでした。

正直、最初は「哲学ってこんなに面倒くさいのか…」と思いました。
次第に、同じテキストに向き合っているのに見えてくることが変わってきて、それがおもしろくなっていきました。

今更ですが、はじめて「読む」ということを学んだ気がします。

分からないことに向き合ってみて、学んだことは、

分かっているつもりになっていても、実は分かっていないことがたくさんあるんだろうなあ

ということでした。

スピノザのような哲学者は「分かりやすく、分からない」。
自分の概念体系を自分の中で確立しているからこそ、他者は自身の概念体系では理解できなくなります。

普段、同じ言語圏にいる人と話しをしていて、これほどまでに言葉の意味が通じないことはありません。

それでも、「実は相手の言葉を理解できていないのかも」とたまには謙虚になってみたいなと思いました。

②個体ではなく、状態。状態でもなく、構成関係

仕事からの帰り道にふと考えていたことを思い出しました。

素敵な人に出会うと頑張ろうと思い、負のオーラを放つ人と出会うと気が滅入る。

とくに、素敵な人と出会ったときの喜びが大きく、そうした人と出会ったときの「触発による変様」が私の原動力になっているのではないか。

ただ、「人」と言うとちょっと違う気がする。
同じ人でも喜びの変様をもたらしてくれるときもあれば、悲しみや怒りの変様をもたらすときもあります。

そう考えると、人を「個体」としてみるのではなく、「状態」として捉えるべきなんじゃないかな。病気になったりホルモンバランス崩れたりするとキレやすくなることもあるし…。

そんなことを考えていました。

『スピノザ 実践の哲学』にも、第3章の69頁から74頁あたりに「状態」について書かれていました。(まだスピノザの言いたいことの理解にまで至っていないのですが。)

テキストを読むと「状態」として捉える、という考え方もちょっと違うようです。

誰かの「状態」によって私が変様しているというよりは、私と誰かの「構成関係」によって私は変様しているようなのです。

そうなると、私の原動力となっているのも、誰かの状態ではなくて、「私と誰かの構成関係にもとづく触発による変様」(仮)なのかなあと思いました(長い…)。

感想共有のとき、私がある人に触発されて変様し、その人を好きだと思う「原因」は何かと聞かれて、私はその人が「優しいとき…」としか答えられませんでした。笑

帰り道、その「優しいとき」ってどんな状態なのか考えてみたところ、ある人が自分の自然本性に従い、喜んでいる(力能が増大している)ときなのではないかと思いました。

ただし、この考え方の前提には、「人の喜んでいる状態は、他の個体の力能の増大に寄与する」という私の仮説があります。

この仮説が正しいのかはまだ分かりません。
後述するように、個体によって価値観が異なりすぎていて、必ずしもそうではないかもしれないとも思っているのです。

ちなみに、ある人を嫌いになるのは、「その人が他者を制圧しようとしているとき」と答えました。

③前提が崩れる。コナトゥスは多様なのだ

先日、自分の価値観が覆される記事を読みました。
それが、この「『足を切り落としたい…』自ら障害者になることを望む人々の実態 」という記事です。

またひとつ、自分があたり前だと思っていた「前提」が崩れました。

人生はこういう“価値観や前提の崩壊”の積み重ねだと思いますし、自分の前提を覆す「異質なもの(自分とは異なるというだけの意味)」との出会いは自分の世界を広げてくれます。

ただ、この記事を読んでいて、何とも言えない気持ちになりました。

頑張ってそのときの気持ちを言語化してみると、
私は、どこまで自分と他者の違いを「ただの違い」として認められるだろうという問いを突きつけられたような気持ちです。

それは、「人の喜んでいる状態は、他の個体の力能の増大に寄与する」という仮説が成り立たないのではという不安定感でもある気がします。

自分を「傷つける」ことは許されるとしても、他者を「傷つける」ことが善であり理想だという人たちがいたらどうしよう、というザワザワ感。

それを私は「彼・彼女らのコナトゥスだからそれはそれでいいのだ」と言えるかというと、言えない。

やっぱり、他者の自由を奪うものについては、何かしらの規制が働くべきなのではないかと思うのです。

そもそも、本当にそれはその人のコナトゥスなのかな?と疑ってしまう。

うまく言語化できないのですが、この話は私の「倫理観」の話なのかなと思いました。

✳︎

講座の最後にこの講座のタイトルでもある「倫理」について話しました。

「道徳」は、ある社会で決められた「善」とか「悪」についての話。

それに対して、「倫理」における「善」は個体が求めるものであり、「悪」は個体が分解されてしまう構成関係。

そんなような話でした。

いま私の頭の中にモヤモヤと浮かんできた問いは、「人間の倫理にはどのくらいの幅があるのだろうか」「人間に共通の倫理ってあるのだろうか」というものです。

花を買って生活に彩りを…