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決めつけることへの嫌悪

少しの情報からあらゆること推測してそれを正解と決めつけることに、嫌悪感を抱く。いわゆる「レッテル貼り」「ラベリング」というやつだ。

ある一面を取り上げて、その人のことをカテゴライズする行為自体は、ときに必要なことだと思うし、当人にとってもある一面がアイデンティティを形成したり、属するコミュニティを選択する基準になったりするので、決して悪いことではないと思う。

またある程度、属性や年齢、性別などによって、人間は身体機能や思考方法、価値観が異なる傾向があると思うので、それをもとに「◯◯は△△なのではないか」といった推測をすることは、差別的言動に当たらないと私は思う。

しかし、他者が勝手に人にレッテルを貼ったり、あるレッテルから、事実から分かりえないはずのことまで推測し、それをまるで事実のように言いふらすのは、他者の尊厳を軽視する行為だ。ましてや、当人が傷つくようなネガティブな情報を勝手に作り上げることはすべきではない。

私自身も、ある一面にひっぱられて、その人の人格や全体像まで知ったつもりになったり、決めつけたりしないようにしたい。

これに関して、先日Facebookの思い出機能みたいなもので、過去にシェアした記事をみていたところ、とても良いことを書いた文章があった。

“オープンリーゲイ”を自称する、一般社団法人fair代表の松岡宗嗣さんのブログだ。

個人間の付き合いの中では性格が合わない人もいると思います。好きな人もいれば嫌いな人もいる。しかし、何かのカテゴリーや属性で「嫌い」と言うことはヘイトスピーチです。それは思考の停止、分断につながります。思考を止めることは楽です。ただ、それと同時に誰かを切り捨てることにつながってしまう可能性もあります。

 自分のたった一つの言葉や行動で、無意識のうちにどこかで誰かを傷つけている可能性がある。それは誰にとっても同じだし、私たちは常にそれと付き合っていかなければいけません。

抜粋部分はとても共感したところ。松岡さんは、個々人の相性の良し悪しや価値観の相違を、カテゴリーや属性に結びつけることの危うさを指摘している。

往々にして人は属性や携わっている活動のイメージなどで、人の善し悪しを判断しがちだ。

しかし、それはあくまでもイメージでしかなく、実態はない。

この文章を読んで、そのことを肝に銘じておきたいなと思った。

そして、松岡さんはこの文章を次のように締めくくっている。

しかし、そう思えるスタンスがあれば、きっと「気づいた」ときに「変わる」ことができる。そのためには、知識やいろんな価値観の人たちとの出会いも必要になってくると思います。

 属性で人を判断しないよう、自分の中にある、何かに対する無意識のうちの嫌悪と向き合い続け、常にアップデートしていく姿勢を「良い」と思う人がひとりでも増えていくと良いなと思いますし、私も続けていきたいです。

こんなネガティブなタイトルにしたことを反省したくなるほど、松岡さんの文章はあたたかいし、やさしいなとも思ったのだった。

花を買って生活に彩りを…