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「人魚の眠る家」:生きているってどういうこと?

この映画をみたのはもうだいぶ昔のこと(1月くらい)だけど、終わったあとに頭の中がぐるぐる渦巻くような興味深い作品だった。

もともと自分に何かあったときの選択肢として、臓器移植に関心があったので、小松美彦さんの『脳死・臓器移植の本当の話』という著書を読んでいたところだった。

なので、同僚が臓器移植をテーマにした映画があると教えてくれてすぐに映画館に足を運んだ。

ちなみに、小松さんは「脳死」を人の死と定義することや、臓器移植に対して批判的な立場だ。

本書では、着目されていない論点や事実が事細かに提示されていて、物事を疑う姿勢などはとても勉強になるが、小松さん自身の主張が強くなりすぎているのではないか、と感じられる場面もある。

だからこそ、いわゆる大衆映画で臓器移植や脳死がどのように描かれるのかに関心があった。

映画のなかで、篠原涼子演じる母は、脳死状態にあれど、テクノロジーの力で動けるようになった娘に対して、“普通に”生きている人間として接するようになる。

懸命に、娘とコミュニケーションをとる母に対して、周囲は次第に、「死んだ状態」にある人間を生きているかのように信じ込んでいると、狂気を感じるようになっていく。

そのときの、気味の悪さを醸し出すような演出には、少し違和感を抱いた。

テクノロジーを使って娘の身体を操作し、娘の成長を喜ぶ母の姿は、「娘を失いたくないあまりに現実を否定する、狂気じみた母親」として演出されていた。

しかし、篠原涼子演じる母のとった行動は、果たして狂気なのか。母親としてある意味、自然な行動とも言えるのではないだろうか。そんなことを考えた。

ただ、全体を通して臓器移植や脳死の判断についての是非は描かれず、あくまで、「あなたはどう考えるのか」観る者に問う姿勢が貫かれているように感じた。

最後、母が警察を呼んで娘を殺そうとするシーンは圧巻だった。

生死というものを、その状態だけではなく、その状態に至る過程も含めてみるという、新しい視点をもたらしてくれたと言える。

これだけ多くの人が観る映画で、これだけセンシティブなテーマを扱うのはすごい。それだけ細心の注意を払っているのだろう。

原作は東野圭吾さんの作品だが、なぜこのテーマを選んだのか、この作品を通して何を伝えたかったのか、ぜひ話を聴いてみたい。

最後に、映画の内容とは関係ないけれど、映画出演者たちはこういう仕事をしているんだとはじめて知ったので、メモとしてインタビューの抜粋を残しておきたい。

 Q:それぞれ演じるにあたり、事前にどんな準備をしましたか?

篠原:まずは、実際に脳症のお子さんの長期介護をされている方にお話を聞きに行きました。床ずれはもちろん、血液の流れが止まらないように、1日に何十回も体勢を変えるんです。呼吸のための鼻水や痰の吸引も、お芝居ですから実際にはやらないけれど、リアリティーが大切なので、手慣れている感じが出るまで何度も練習しました。

 西島:僕の役にとっては、父親との関係性が重要だったので、カリスマ経営者の父を持つ二世経営者の方にお会いして、その思いを聞きました。あと、脊髄の反射で体が動く研究をしている方にも話を聞きました。内容も大切ですが、その方がどんな雰囲気なのか、どんな話し方をするのかも気にしました。

花を買って生活に彩りを…