「かわいそう」の本質

「かわいそう」という言葉が嫌いです。

わたしがこどもの頃
小学生でメガネを掛けている人は珍しく
2年生で強度の近視が判明してメガネをかけるようになった私に
「まだ小さいのにかわいそう」
「女の子なのにかわいそう」
という大人は大勢いました

学校へ行けばからかう同級生、上級生もたくさんいて
腹が立ちましたが
「やめろ」と反撃することもできたし
「ばかじゃないの」とそれなりにやりすごせたし
それよりも「見える」ことのほうが嬉しくて
<からかわれたくないからかけない>
という選択肢はありえませんでした

言い返すことができない
大人たちの「かわいそう」のほうがよほど堪えました

メガネをかけるようになったのは2年生ですが
1年生のときに、校庭で上級生の下敷きになって
顔を盛大に擦りむいたことでついた「傷跡」のことも
大人たちの「かわいそう」のターゲットになっていて
幼いながらに
「じぶんじゃなくてよかった」
「わたしなら堪えられない」
という本音と
「見た目を評価された」
という理不尽な怒りを感じていて

傷跡のある顔にメガネがのっかっている
子猿のような小さく貧弱なわたしに
「かわいそう」と言うことで
優越感に浸っている大人たちが
気持ち悪くてしかたがありませんでした

子育てをはじめると
一般的ではない方針に関して
「〇〇だとお友だちにいじめられてかわいそうよ」
と忠告してくださる方がありました

「〇〇」には
ゲームをしないことや
テレビを見ないこと
などが入ります

元OTTOはゲーム命というくらいに好きで
新しいゲーム機や人気のソフトは長時間並んででも買う人でしたので
うちには一通りあり、禁止したこともありません

息子が好きではなかっただけです

テレビも見ないから邪魔になって捨てた高学年まではありました
つまらないから消してしまうので見なかっただけで
禁止したわけでもずっと置いていなかったわけでもありません

「いじめられてかわいそう」
という人は
「人と違う」ことは「いじめる理由」として正当、という文化
「みんなと同じ」だと「みんなと違う」人に優越感を感じる文化
を生きておられるのだな…
というように解釈していました

わたしは
「違い」を持つ人を「いじめてよい」とは思いません
「違い」を持つ人より「みんなと同じ」自分が優れているとも思いません

なので、「かわいそう」という発想をする人と
自分は「違う」とだけ思っていました

でも、「違う」だけではなく
かなり「有害」なのではないかと最近になって考えるようになりました

もう何年も前のことになりますが
「DAYS JAPAN」という報道写真誌を出していた
報道写真家の広河隆一氏が性暴力を訴えられ
写真誌は休刊になり、表立った活動ができなくなった出来事がありました

最近では、長崎の私設資料館
「岡まさはる記念長崎平和資料館」の創設者岡正治氏の没後に
性暴力の被害が明らかになり
資料館の名前や展示内容の検討のために休館したことが報じられました

広河氏も岡氏も、「人権侵害」を記録し、伝え、教訓とすることを
目指しておられたとだれもが考えるはずです

両氏が公に見せていた部分はすくなくともそうでした

ですが、プライベートでは「人権侵害」をしていた

広河氏にいたっては、
いまなおあれが人権侵害だったという認識では無いらしく
#metooのとばっちりであるかのような言動を繰り返すそうです

実は、同和問題や障害者差別などに取り組む「人権活動家」が
プライベートではDVやセクハラをしているというのは
かねてから珍しい話ではありません

なんらかの支援活動や慈善活動などに関わる人で
対象者にはとても親切だけれど
それ以外の人にはそうではない…という人も珍しくありません

よく聞くのはアーティストの著作物への不払い

「かわいそう」と自分が感じた人に親切にすることで
優越感を感じることができる

それが活動の動機なのであって
「人権」が普遍的なものであることを認識しているわけではない

そう解釈しています

「かわいそう」というのは「優しさ」から出る表現のように見えるため
本人も自分は「優しい人間である」と確信していたりします

ですが
かわいそうだから優しくできる、大切にしようと思う
のは、本当の優しさでしょうか

優しく大切にした結果
その人が「かわいそう」ではない状態になっても
優しく大切にし続けられるでしょうか
「かわいそう」ではない状態になったことを
共に喜べるでしょうか

被災者支援の活動のなかで
被災者が生活に困って辛そうにしている間
なにかと面倒を見てくれた人の中に
暮らしが軌道にのり楽しげに生活しだすと
「被災者らしく地味に暗い顔をして暮らせ」
というような訳の分からない圧をかける人が現れる

被災者向けに紹介された物件や
当座の暮らしのために寄せられた物資の中には
住めない、使えないものがたくさん混ざります

「ありがたがれ」という上から目線を感じざるを得ません

人権とは
共感の及ぶ範囲に境界も垣根もなく
属性や特徴がどのようなものであれ
互いに「大切にしあう」関係性のこと

「かわいそう」のフィルターは
一段自分を高いところに置いて
フィルターの向こうの一段低いところにいる
「かわいそう」な人の「かわいそう」な属性や特徴に反応し
「かわいそう」をケアすることで優越感を味わうために用いられます

人権侵害に敏感な人が
必ずしも「人権」を理解しているわけではない
というのは悲劇的なことですが現実です

「かわいそう」という一見「やさしげ」な言葉が
人権侵害を温存させている
というのも悲劇的なことですが現実です

不便を感じている人
差別されている人
暴力にあっている人…に対して「かわいそう」と思ってはいけない
という話ではなく
「かわいそう」と感じたときには
自分がその状況には「いない」ことの優越感に浸って終わるのではなく
「自分にできること」を考えたいと思うのです

何ができるのかわからないときには
「わたしにできることがありますか?」と聞き
これならできると思った時には
それがその人の求めることかどうかを確認する。

共感の垣根を取り払ったときに
「自分の想像の及ばないところ」が感じられるようになり
対等な対話ができるようになる

ひとりひとり状況は異なり
ひとりひとりニーズも異なる…
当事者としての経験があったとしても
わたしとあなたは違う人である

違うのだからわからないこともある
だから聞く

察することも必要だけれど、
聞くことから始まる対話は尊厳を取り戻す鍵になることがある

「かわいそう」の毒に浸ってしまうと
豊かな関係性が育みにくくなるので
気をつけたいと思います

「さみしい」「めんどくさい」「かわいそう」
毒性の高い状態、概念、言葉だと思います。

孤独と怠惰の毒性については改めて

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