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論点そこ?
まずはじめに、ウィル・スミス氏の暴力を肯定する意図はまったくないことをお断り申し上げておきます。
それよりも、このニュースを始めに知ったときから一貫してわたしが「へんなの〜」と思っているのは、スミス氏がビンタを食らわしたことの是非に論点が集中していること。カッとなったからといって、家族を侮辱されたからといって奮っていい暴力などありません。体罰という暴力も日本でさえ禁止の方向にむかっているのですから、それが時代の流れというものです。
何が起きたのかをご存知ない方のために、そして、あとで「なんだっけ?」となったときに思い出しやすいように状況をおさらい。
2022年のアカデミー賞授賞式でプレゼンターのクリス・ロック氏が、スミス氏の妻ジェイダ・ピンケット氏の脱毛症をネタに「Jada, can’t wait for G.I. Jane 2.(ジェイダ、GIジェーンの続編が楽しみだよw」というジョークをかました。会場は笑いに包まれた。カメラはピンケット&スミスを捉え、苦笑いする(ようにわたしには見えた)スミス、引きつった顔(のようにわたしには見えた)のジェイダが映し出された。カメラは再びステージのロック氏。スミスがつかつかと歩み寄ってビンタを食らわす。
スミス氏を逮捕だの、アカデミー会員から除名だの、懲罰的な動きがあるのはまぁそうなるよね、という感想しか湧かないのですが、それよりもなぜ「ビンタ」にだけ注目が集まるのかが解せずにいます。
これ、イジメの中でも被害を受ける当事者にとっては「嫌」を表現しにくかったり、同調して笑っていても、自嘲気味に自らギャグのネタにしていたとしても、じわじわと自尊感情を蝕んでいく「見た目いじり」です。権力者以外の属性(たとえば民族、年齢、障害や病気など)を笑いのネタにするには洗練されたユーモアのセンスとウィットが必要で、クリス・ロックの今回のには微塵もそれを感じませんでした。単なる見た目いじり。そしてこれは名前が出たジェイダだけではなく、同じ症状でつらい思いをしている人のココロもえぐったはず。クリス・ロックがネタにしたことだけではなく会場が笑いに包まれたことが、どれほどジェイダにとってキツかったことだろうと思うのです。
タラレバの話をしてもどうにもならないのですが、もし仮にあの場で誰かがスッと立ち上がって「クリス、それ笑えないわ」とたしなめてくれて、同調して笑った人たちもシーンとなったなら、スミス氏はわざわざステージに上って暴力を振るっただろうかと思うのです。
わたしの中では「誰が最初に暴力を振るったのか?」が1番気になる問題で、その次に「その暴力に加担して傷口を広げたのは誰か?」が1.1番めに気になる問題。スミス氏のビンタの善悪よりもうんとそっちが気になるのです。
言葉の暴力も凄まじい破壊力を持ちます。
暴力を容認する空気も刃を向けられた人を更に傷つけます。
授賞式というおめでたい場は笑いに包まれていてほしい。
それに水を差したくない。
そんな気分もよくわかります。
でも、その笑いは誰かの悲しさという犠牲を伴わない、
誰もが共有できる笑いであってもらいたい。
そんなことを思いました。
タイトルの写真はfbでシェアされていたものです。
この瞬間のこのバランス!
追記
調べてみたら「見た目いじり」を暴力の発端として扱う記事がありました。
信濃毎日新聞の記事。こちらは家父長制に毒されたようなスミス氏の怒りの表現にも言及しています。確かに「ルッキズムをネタに笑いを取るのはやめにしないか」と指摘することもできたはず。そしてそれは、その場にいた誰もができたことでもある。
こちらは見た目でいじられる側の当事者の記事。
ずっとそんな言葉を投げつけられたときの自分が感じたごく小さな「イヤだな」、「悲しい」と思う気持ちを瞬時に押し込め、大人として流すうちに、自分の心の一部が石化したというか、少しずつ壊死しているように感じてちょっと怖くなる。
差別される人、イジメられる人が、少しずつこうして心の一部を石化したり、壊死させるのをそばで見ていていたたまれなくなるのです。ジェイダの表情からもそれは感じられました。
「暴力を容認しない」の「暴力」に「言葉の暴力」もしっかり含めておきたいです。
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