才能の孤独性について。|「春と秋と奏ちゃんと。」
読み放題サービスで「春と秋と奏ちゃんと。」を読んだときにこんなセリフが出てきた。
絵が気持ち悪いと言われたことがきっかけで不登校になった奏が、芸術家のハルに絵を見せたときに言われた言葉だ。奏は初めて会うプロの芸術家の反応を気にして(もじもじして)いたけど、ハルは何もリアクションせずにこう言った。
いい言葉だなぁ、って思う。
ちゃんと自分の中に表現したいことがあるなら、人の目を気にするな。
もっというと反応や理解が欲しいために自分の芸術を曲げるな。
その道でいい。
そんな気持ちを感じた。
私は才能の非社会性というか、孤独性やらが好きなのかもしれない。
もう少し考えてみる。
才能は理解されない
個人的に、才能という言葉は酷く薄っぺらい言葉だと思う。
デリカシーがない。
才能を持つ人は、常人以上に努力しているものだし、そうでない部分の能力だって、別に神様から与えられるものじゃない。
幼少期の習慣とか、生まれ持った感覚の鋭さとか
そういうものを研いだ結果が才能になる。
本当は才能には個別の原因があるんだと思う。
でも、外からみるとそれは分からない。
だから、才能なんていう無責任な言葉でひとまとまりに呼ばれてしまう。
理解された特性は、何か特定の能力だし。
再現しうる能力は、努力だ。
「憧れは理解からもっとも遠い感情」っていうのも尤もだ
その実際を知らずに一方的に持ち上げる言葉は、その人を突き放しているのと紙一重である。
ゆえに、才能は孤独を帯びる。
理解を求めてはいけないのか
人は他人を本当には理解できないんだよ。っていうのは一旦置いておいて
別に才能が孤独だからと言って理解を求めはいけないわけじゃない
理解されないことが偉いわけじゃない
違うのだ
他の人には到達できない場所にいける
他の人が理解できない場所にいる
そして、他の人が分からないそれを、どうにか理解してもらえるように表現する。
それが良いんだと思う。
理解できないことを、理解してもらえるように頑張る。
理解を放棄するなら自己満足でいい
理解だけが欲しいなら、簡単でキャッチーなものだけ作ればいい
でも、それじゃあ、何も前に進まない
誰にも理解できない場所へ行き
掴んだ何かを、必死で伝えるんだ
そうでありたい。