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優しい「、」の打ちかた

小学校で国語の時間に習った句読点。中でも「、」すなわち読点(とうてん)は、適度に使うことで文章を一気に読みやすくしてくれる。読点が存在しなければ読むのにも書くのにも不便なことは言うまでもない。もしくは、読点を必要としないほどの短い文章でこの世界は溢れていたかもしれない。

noteを書くようになってからこの「、」の位置に迷うことがとても増えた。それまで文章を書く時に読点の位置を気にしたことはあまりなかった。

自分の思考のスピードと喋り方のまま書くと、わたしの場合は「、」が多くなる。流れをスムーズにしてくれる役割もある読点は、入れすぎると文章の流れをせきとめて、読み手の心地よいリズムを邪魔してしまう。区切りの多い文章を読むと、予想外の読点にぶつかる度に読みづらさと重さが足されてしまう感覚がある。時には途中で読むのをやめてしまうことさえある。(見た目に「、」が多いと感じても読んでみたらその人の世界観のあるリズムを表現している場合もあるので、一概には言えない。)

一気に書いた自分の下書きの文章を読み返してみると、要らない読点が多いことに気付く。添削する前の文章に打った「、」は、思考のリズムでもあり、書くときの呼吸のリズムなのだと思う。

わたしは話す時に次の言葉までの間が長くなってしまうほうだ。話しながら、どう伝えようか、どの言葉を選ぼうか、より正確に今感じているものを伝えるためにしっくりくる表現をその場で考えている。ほんの数秒だけど、シンキングタイムが入る。間が空いてしまっていることに自分で気付くと、話しながら焦る。「イライラしてないかな?」と聞き手の表情を無意識に確認している瞬間もある。

ただ実際、有難いことに意外とその間は受け入れてもらえていることが多い。イライラされたり急かされたことはほとんどない。気になったので友人に聞くと、「別に気にならないよ。寧ろそれはこはるちゃんらしさでもあるし良いと思う。」みたいなことを言われた。話しながら相手を不快にさせているのではと心配だったから、それを聞いて安心した。

スラスラ話せることは憧れるけれど、もし自分がスラスラ話すことを1番に優先してしまったら、それと引き換えに大して思ってもいないことや、上辺にちょぴっと浮かんでる程度のものを選んでしまいそうですごくこわい。そしてそれがいやだなと思う。だからどうしても、間が出来てしまう。

文章は何度でも書き直すことが出来るので、読みやすい形に変えることが出来る。自分の感覚とその場のリズムで書いた文章は、必ずしも読みやすいものだとは限らない。読み返して書き直してもなお、読み手にとって読みやすくなっているのか自信はない。読点のセンスは、小説やエッセイ、たくさんの色々な文章を読んで身についていく「感覚的なもの」である気がする。(いや、もしかしたら技術的な側面もあるのかもしれない。)

読んでいて心地よい文章を書けるようになりたい。それはきっと、書き手のひとりよがりの産物ではなくて、読み手を置いてけぼりにしないやさしさのある作品だと思う。





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