クラス替えで人生詰んだ 10.卒業後

中学3年へ進学しても2年同様に様々なことがありましたが、ここではあえて省きます。
3年になっても学校へは行ったり休んだりと、不登校は続いていました。

不登校に対し後悔はありません。ああいった環境ならば、なって当然です。

もしあったとすれば(以前にも述べたが)中学入学時に私立・国立中学の存在を知らず、受験しなかったこと。
不登校になって、他校への転校を申請しなかったこと、です。
自宅が市域の端にあったため、どうしても他の市町へ越境通学になってしまい、不可能、もしくは面倒な手続きが必要なので躊躇したからです。
もしそうでなければ転校しました。

高校へは学力等で全日制の進学ができず、昼間定時制の学校に通うことになりました。

実は学力や内申書により、普通の高校(いわゆる全日制高校)行けないということで、三重県某市の某高等専修学校にしか行けないと脅されました。そこは高校ではなく、3年で卒業して大学入学資格は得るが、残り1年で研修に行かないと高校(提携先の通信制)を卒業できない所でした(今は制度が変わってそういう面倒なことはありません)。
名古屋や県内にも高等専修学校が少なくないのですが、あえて県外の遠い田舎の学校にしか行けない、それがくやしいし情けなく思いました。
だから昼間定時制の話を聞いて、必死になったのです。
もしだめなら、県立の通信制高校になるはずでした。
今のように不登校向けの高校(単位制の全日制や通信制)は皆無でしたので、選択肢がそれしかなかったです。

とはいえ、卒業は出来ました。
校長とはあまり話をしたことはなかったのですが、やはり僕の進路ことを考えていたみたいです。
思えば2年時の担任も、不登校になって毒づいたりはせず真剣に対応してくれましたし、保健の先生もそうでした。
3年時の担任は個人的に苦手でしたが、対応自体は真剣でした。
これは不幸中の幸いです。
最悪、生徒のみならず教師からも嫌がらせを受けたり、校長もどうしようもない人物で、卒業できず留年…否、卒業できないまま中学を事実上退学させられたりする可能性もありました。
そうなった場合、名古屋の夜間中学に行くか、中学校卒業程度認定試験を受けなければならなかったかもしれません。

卒業後、進学先の高校は学校規模が中学より小さいうえ、時間的余裕もありました。
学校では様々な出来事があったのですが、あまり良い思い出がり無かったけど、長い4年間は決して無駄ではなかったです。
高校卒業後、専門学校へ進学でき、一方で通信制の大学へも進学できました(大学は中退)。
就職してから、またおかしくなりましたが、これは本題ではありません。

いろいろと書いてきましたが、僕の中学3年間は、

この学校こそ、自分が行きたくなかった学校であった。

あたりかはずれかでは「はずれ」、得か損かと言えば「損」。

これが結論です。

同窓会も出たくない。
同期が就職や結婚で社会に居場所がある中で、自分だけがないのですね。
啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」でしょう。


前にも述べたように、中学での不登校は同時に小児うつの患いでした。

被害妄想、変なこだわり、非常に涙もろい事や、学校へ足がどうしても向かないところなど、今にして思えばそんな出来事がうつの症状でした。
残念ながら当時の医学界はそんな考えはなく、せっかく小児精神科へ受診していたのに、見当違いな対応をされていたのかもしれません。
今にして思えば。

20代前半、社会人になってからも当時の事をたびたび思い出すなど、被害妄想が毎日のように激しかったです。
これも今思えばうつの症状であったかもしれません。
自分のうつ病は、実は発症以前からあった、というわけです。


あれから数十年以上がたち、今もこの体験が僕を苦しめています。
「どうせダメな人間だ」「人生の失敗者」と思うとき、常にこの事が思い出され、これこそが今の自分がだめになった元凶だ、と思います。

最後に。

うつ病にかかり坑うつ剤(パキシル)を服用するようになって以来、最初は毎日、数年後は頻繁に、中学校の夢を見るようになりました。
最初、現在の僕が当時の中学へ入学し通学する夢が多かった。その後、高校や専門学校・郊外の大学へ入学したりと、様々なバリエーションの夢を見ました。
共通するのが、自分の判断で学校をサボったりする内容です。
これは薬の副作用の一つ「悪夢」でしょう。
うつ病がひどかったころ、少しながらその夢を楽しんでいた。たまに、本当の悪夢になることもありますが。

(終)

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