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落ちこぼれシニアのリベンジ読書~『沈黙』遠藤周作著~

<<感想>>
島原の乱の鎮圧後間もない頃。布教と、棄教したとされる師の様子をうかがうためにキリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭(ロドリゴ)を主人公とした話である。
最終的に囚われの身となったロドリゴ。「転ぶ」(=棄教)ことを奉行などから求められるが頑なに拒否する信仰への思い、また「転ぶ」にいたった師フェレイラとの出会いとそれに伴う複雑な感情、そしていくら祈っても神は「沈黙」していることへの葛藤など、主人公ロドリゴの心の動きが手に取るように描かれていた。
 
西洋文学を読むにあたって必ず壁にぶちあたるのが「キリスト教」である。
なかなか日本人には理解しがたいところである。特に私のような鈍感な、信仰心のない人間にとってはなおさらである。
ここを正しく理解しなければ、西洋文学を理解したとは言えないと感じている。
 
今回『沈黙』を読み通じて感じたのは、「キリスト教と土壌(精神性)」の関係性である。
キリスト教が精神文化の根底にある西洋と、政治的・経済的な側面から利用されていた日本。
やはり生活における深さは異なっていた。(今日でも違いは大きいだろう)
フェレイラが「この国は沼地だ。どんな苗も沼地に植えられれば、根が腐り始める。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」とあるが、これは当時の日本はキリスト教に対する歴史と理解の浅さのために精神文化にまで根付いていないということであり、それが布教の困難性の原因であることを伝えようとしたものと考える。
実際に、キチジローのように信仰心はあっても精神性が弱く、保身を考えるものもそれなりにいた。まだまだ日本におけるキリスト教の精神性は低かった。
一方で、ロドリゴやフェレイラのような司祭は、教えに対してストイックである。
ただ司祭がストイックとなればなるほどキリスト教禁制下では「犠牲(特に信者への拷問)」を強いられることになる。
特に司祭に限らず信者も極限状況になるほど、神に対する依存性は高まる。
が、そもそも神は沈黙しかできない。
 
「沈黙しかできない神」と「神を信仰する司祭・信者」。神とは一体何なのか。人々の精神文化とどのように関わっているのか。改めて考えさせられる著であった。

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