にじさんじの両国国技館ライブ「Virtual to LIVE in 両国国技館 2019」が見せた奇跡の必然性について
ここ半年ほど、にじさんじの配信ばかり見ている。
キッズがHIKAKINやFischer'sの動画を毎日見ているように、そこそこ年のいった男性である僕は、かわいい女の子たちがいっぱい出てくるにじさんじの配信を見ている。それだけのことだ。
別段、にじさんじに限らず.LIVE(どっとライブ)でもキズナアイでもよかったのだが、配信を主体としたにじさんじのスタイルが僕には合っていた。
動画は重い。
映画やドラマを見るのにある程度の気合が必要なように、10分ほどの動画を見るには、10分ほどの動画を見る気合が必要なのだ。
凝りに凝った編集や、わざとらしいネタなどがない、にじさんじのだらだらとした垂れ流しの配信スタイルが、なんとなしに見るにはぴったりだった。
なお、僕がにじさんじを見始めるようになったのはたまたまで、同じく配信を主体としているホロライブに軸を置いてもよかったのだが、なんとなくにじさんじの引力にひっぱられ、それが今でも続いている。
まあ、半年前はにじさんじ一強時代だったし。
そう、Vtuberの時代は、あれだけメディアで騒がれたキズナアイではなく、完全ににじさんじのものだった。
なぜにじさんじはVtuber界の天下を取ったか。それは「なかのひと」が人間性を見せだしたことに尽きる。
キズナアイが没落した理由は、「なかのひと」が変わったり、黒い噂があったりと完全に事務所の自業自得でしかないのだが、ほかのVtuberの事務所も「人間性を見せる」ことをタブー視していた。「なかのひと」の存在をほのめかすなんてもってのほかだった。「なかのひと」なんて存在してはいけない、それがVtuber界の暗黙の了解だった。
だから既存の事務所は、「人間性が現れた部分を徹底的に削除して」「美しく編集された動画を公開する」ことが、Vtuberファンの夢を壊さず、新規ファンの獲得に繋がると信じていた。
それはVtuberというペルソナありきのキャラクターがボロを出すことを恐れての一手としては当然のものだったし、Vtuberに限らず世界はそうして回ってきた。
だって、戦隊ヒーローがプライベートで不倫していたら、そのヒーローはおしまいでしょう?
しかしにじさんじはこの世界の仕組みを逆手に取り、人間性を出すことでファンを獲得していった。
僕がにじさんじにハマったのがここ半年なので、いちばん最初に人間性が出たのがハプニングなのか、意図したものなのかはわからない。ただ、現在にじさんじに所属しているVtuberたちは、下北沢の路上で絵を売っていた話や4日前に買ったマクドナルドを食べた話、掛け算ができなくて強制入院されそうになった話などを楽しそうに披露している。
にじさんじに新しくライバー(配信者)が所属すると、まずはじめに自己紹介動画が公開される。それらは大抵当たり障りのない内容で、好きなゲームだとか休日の過ごし方だとかを語る、なんてことのない動画であることがほとんどだ。しかし、そこには決まって「この子もそのうちヤバイ内面をさらけ出すんだろうなあ……」といったコメントが散見され、にじさんじ所属というだけで本性を疑われる風潮ができあがっている。
これだけでも、にじさんじがいかに優れたタレント集団であるかを読み取れると思う。
にじさんじのファンは、初期のペルソナ期間を生暖かい目で見守り、ペルソナが剥がれた瞬間に歓喜し、そのひとが持つ人間性がヤバければヤバイほど沼に嵌っていく。
僕がにじさんじにハマったきっかけは、本間ひまわりという女の子の切り抜き動画だった。切り抜き動画というのは、何時間もある配信から特に面白い部分だけを切り抜いた、「時間がない人」向けの動画である。本間ひまわりは、元気ハツラツ、天真爛漫、とてつもなく天然でこの上なく優しいという、にじさんじの中でも陽のベクトルに秀でた「いい子」だ。しかし「闇が深すぎる本間ひまわり」という動画で僕は完全にやられてしまった。
配信中は元気いっぱいで、見る人にも癒しを与えてくれる本間ひまわりが、過去にいくつものバイトをクビになっている、というものだった。本間ひまわりの配信を見るとわかると思うが、彼女は不良ではない。むしろ一生懸命に仕事を頑張るタイプだ。仕事をさぼってクビになるのではなく、レジで5万円の過不足金を出してしまったりして、クビになってしまうのだ。そんなエピソードを、場が暗くならないようにつとめて明るく語る本間ひまわりが、今までどんな人生を送ってきたのか、どんな不幸を乗り越えて今日の明るく元気な本間ひまわりを作り上げてきたかを思うと、彼女の支えになりたいと思わずにはいられなくなった。それからの僕は本間ひまわりの過去配信を漁るようになり、バイト先の新人から忘れられる本間ひまわりや、バイト先がつぶれる本間ひまわり、にじさんじと出会って人生が変わる本間ひまわりを目にし、彼女の人間性にどんどん惹き込まれていった。
本間ひまわりの動画ばかり見ていると、関連動画ににじさんじ所属ライバーの動画ばかり出てくるようになった。そこで笹木咲や椎名唯華、夢月ロア、勇気ちひろ、月ノ美兎といった他のにじさんじライバーの配信も見るようになっていった。
みんな、一癖も二癖もあるヤバイひとたちだった。
魅力的な人間性のカタマリみたいなひとたちだった。
実生活では絶対に巡り合わないようなひとの人生を聴くのは楽しかった。
テレビで繰り広げられる好感度を気にした上っ面の女子トーク番組と違い、リアルな女子部屋でのリアルな女子トークを聴ける(疑似的ではあるが)というのは一昔前では絶対にありえなかったことだ。
そんなにじさんじが2019年12月8日に両国国技館でライブイベントを行った。にじさんじを知るのが遅すぎた僕はチケットを持っているはずもなく、有料のライブ配信を見た。
こういった、二次元キャラクターのライブイベントの知識が初音ミクで止まっている自分にとっては、衝撃的なイベントだった。初音ミクのライブは機械音声であり、MCも前もって打ち込まれたものだっただろう。しかしにじさんじのライブは、外見こそ二次元であるものの、その向こうには人間がいる。生歌が披露されるのはもちろんのこと、その場に最適なMCをすることができる。演者と観客がコミュニケーションをとることができる。色とりどりのサイリウムが会場を埋め尽くし、ライバーの一挙手一投足に歓声があがり、パーソナルカラーに染まったサイリウムが客席を覆う。それを見たライバーが感極まる。どこででも目にすることができる、演者と観客の間にコミュニケーションが存在するライブだった。しかしライバーにとっては、非常に特別なイベントだったと思う。ライバーは、配信中以外は普通の生活を送っているただの人間だ。そんな一般人が、自分の色で染まった1万本のサイリウムを目にする。自分を求める1万人の歓声を耳にする。そんな幸福な瞬間を、いったいどれほどの人間が味わうことができるだろう。
だからこのライブイベントには、観客の感動が演者の感動を呼び、演者の感動が観客の感動を呼ぶという、感動の相乗効果が生み出す奇跡のような空間ができあがっていた。
さらに、このライブで特筆すべきは御伽原江良の歌唱中に起きたハプニングだろう。御伽原江良は清楚な女子大生というキャラクターでデビューするも瞬く間にペルソナが剥がれ、さらに「魔法の解けた御伽原江良」という配信で素を晒し大炎上したという過去を持っている。その後は素の御伽原のキャラクターが徐々に受け入れられ、ツイッターのトレンドで世界一を獲得するほどの成功を収めたものの、炎上時にはにじさんじファンからすらも若干距離を置かれているような時期もあった。
そんな、にじさんじの中でも異端児である御伽原江良の歌唱中に機材トラブルが発生し、まともに歌えなくなってしまう。例えばこれがライブを何度も経験している歌手ならば歌いなおしもできただろうが、機材トラブル状態のまま、御伽原江良のライブコーナーが中断、暗転。のちの振り返り配信で御伽原が号泣するほどやりきれない出来事が起こってしまった。しかし突然の暗転にざわめく会場に、御伽原のパーソナルカラーであるオレンジのサイリウムと「ギバラ(御伽原江良の愛称)」コールが沸き起こる。かつてにじさんじファンからも敬遠されていた御伽原江良が、両国に集まった1万人から熱烈な支持を受けている。それは御伽原があの日に失ったファン以上のものを手に入れようと努力した日々のたまものであり、強い人間と見られがちな御伽原が時折見せる弱さを会場の誰もが知っているからこそ自然発生的に沸き起こったコールであり、御伽原を悲しませたくないと思ったひとりひとりがサイリウムをオレンジにしたからこそ生まれた、幻想的な光景だった。
この感動的な瞬間は、現在アーカイブサイトでは「なかったもの」として編集され見られなくなっている。そして、両国国技館でのライブ映像を収録する、と謳われたにじさんじのアルバム『SMASH The PAINT!!』初回限定版のDVDにも、この模様は収録されなかった。だからこそ、あの瞬間を目にした者の心には、あの感動が深く刻み付けられている。
あの瞬間にはいくつもの奇跡が積み重なっていた。
にじさんじが両国国技館でライブイベントを行ったという奇跡。
特に歌に力を入れているわけでもない事務所のライブに1万人が集まったという奇跡。
音楽のファンではなく、ライバーの人間性に惹かれたひとが1万人集まったという奇跡。
御伽原江良にだけ機材トラブルが起きたという奇跡。
御伽原江良だからこそ幻想的な光景が生まれた奇跡。
地球のように、生命が繁栄する惑星がこの宇宙に生まれる確率は、10の15乗分の1だという。
そんな地球の上で起こる出来事なんて、言ってしまえばすべて奇跡だ。
そんな地球の上で起きたさらなる奇跡は、もはや必然なのではないだろうか。
そこにゴールは存在し、あとは導かれるだけ。
生が存在する以上、死が必然なように、偽りの御伽原江良が死んだあの日に、生身の御伽原江良が祝福されることが定められたのだと思う。
よくテレビでは「奇跡の映像スペシャル」といった、スポーツの名場面や生物が織りなす美しい光景なんかを山ほど集めたような番組がたびたび放送されている。
それらは確かに奇跡的な瞬間なのかもしれないが、放送を重ねるたびに奇跡としての純度が落ちていってしまっているように感じる。
はじめて目にしたときにはこの上なく感動できた映像も、何度も目にすると慣れてしまい、いつしかなんとも思わなくなってしまうように。
先述の御伽原江良のハプニングをDVDに収録する、という話し合いも、にじさんじ内で何度となく行われたことだろう。しかし、DVDで何度も見られるのは確かに嬉しいことだけれども、やはりそれは奇跡としての純度を下げてしまう気がするのだ。
あの奇跡には、慣れてしまってはいけないような気がするのだ。
DVDに御伽原江良のハプニングが収録されたとして、多くの人が繰り返し見たとする。
またにじさんじのみんなが集まってライブをしたとして、同じようなハプニングが起きたとする。
そこで起きるコールには、どこか予定調和を感じさせる「なにか」が生じてしまうことだろう。
Radioheadが2003年のサマーソニックで演奏した”Creep“と、2016年のサマーソニックで演奏した”Creep“に対する観客の熱が違うように。
だから、あの奇跡のギバラコールは、あの瞬間に居合わせたひとりひとりの心のなかで輝いていればいいのだと思う。
「DVDに収録しない」という決断をしたにじさんじは、言うなれば、また必然性を積み重ねはじめたのだ。
予定調和では決して起こらない、ライバーを想うひとりひとりの願いが集まって生まれた奇跡に、また巡り合うために。
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