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女に生まれた私と仕事 結婚と仕事はどちらかを選ぶもの?②

棟上げが進んでおります。最近は上棟式ってやらないことも多いみたいで、数日かけて出来上がる様子を眺めてます。

①では、結婚を考えた人との別れを書いたので、その続きを…


私は長崎が好きだったし、仕事もやりがいがあり、役割も増えてきていた。大学院に進学しないかという話もあった。社会人枠は経験年数3年で受験資格をもらえるとのことだったので、それに向けて勉強をしていた。

そんな3年目が終わろうとしていた2月。母がくも膜下出血で倒れた。ある日の夕方、ほとんど連絡をとらなくなっていた姉から電話がかかってきた。

姉「もしもし?!今、お母さんが救急車で運ばれよるんや。くも膜下出血かもしれんって。」

心拍数が上がった。

私「え?どうゆうこと?倒れたん?」

姉「いや、仕事中に頭が痛くなって早退してきたんやけど、あまりにも調子が悪そうやから病院連れて行ったねん。そしたら、くも膜下出血かもしれんってなって、今手術できる病院に運ばれよる。とりあえずまた連絡する!!」

頭の中はパニックだった…わけではない。意外と冷静だった。私がすべきことを考えた。今すぐに帰るには飛行機も新幹線もなかった。最短でも明日の始発を待つのが早そうだった。夜行バスとかを乗り継げばもっと早くに着いていたかもしれないが、その後の動きを考えた。

姉に明日の始発でそっちに向かうことをLINEした。既読にならないことで、向こうの状況がよめた。待つしかなかった。

その間に上司に連絡し、休みをもらう手配をした。快く休ませてくれ、私のことを案じてくれた。

数時間後、姉から電話がきた。母が今手術中だということや、経緯、義兄や叔母が駆けつけてくれていることを知った。手術付き添いが必要とのことで病院に泊まってくれることになった。明日、最寄りの駅まで迎えにきてくれることを約束し、電話を切った。

その晩は寝れなかった。私は理学療法士だ。くも膜下出血の患者さんも診ていた。3割は死、3割は重度後遺症、3割は軽度後遺症、いろんなことを覚悟した。親の死に目に会えないとはこうゆうことかと実感した。

母への連絡が減ってしまったいたこと、忙しいと言い訳して帰省もなかなかしなかったことを悔いた。なんのために医療従事者になったんだと情けなくなった。

母の手術は無事に成功したことを知るのは。地元の空港に降り立ってからだった。ホッとした気持ちで電車を乗り継ぎ、病院へ行った。ICUで意識朦朧としている母は、私をみると、

母「あんた…忙しいのにごめんな。大丈夫やで。」

と言った。泣きそうになった。その時、実家に帰り母と暮らすことを決めた。転職するとか、やりたいこととかよりも、母を選んだ。そうしないと後悔すると思った。

幸いにも母は、奇跡の1割だった。後遺症なし。今でもピンピンしている。それでも半年以上仕事を休み、好きだった山登りも行かなくなった。私は引き継ぎやお世話になった職場への恩を考え、そこから半年働き、地元へ帰った。母と私の2人暮らしである。その頃の話もまた機会があれば書きたい。

もちろん私は独身で、仕事はしなければいけない。通いやすさや前の職場と似たような病院を探した。それが、夫と出会った病院となる。

転職直後は人間関係や、考え方の違い、自分の野望とのギャップに泣いた。母は時おり申し訳ないと言うこともあった。娘の人生を変えてしまったといった。私は地元に帰ってきたことは全く後悔していなかった。ただ、自分はここでもやってやるという気持ちだった。

地元はよかった。学生時代の友人とも遊ぶことができ、25歳から28歳までの3年間は独身を謳歌した。仕事、恋愛、遊び、全部に全力投球だった。周りがどんどん結婚していく中で、口では結婚したいとか言っていたけど、本心ではなかった。まだ1人も悪くないと思っていた。

そんな私の考えは、28歳で子宮頸部高度異形成の手術をすることでかわった。子どもを産めないかもしれないと思うと、子どもが欲しくなった。入院の付き添いが母であることに恥ずかしかった。母にも安心してほしかった。

そこから、私は本気で結婚を考えた。そこで見つけたのが今の夫である。夫とのなりそめは前に書いた。理学療法士の夫は結婚後も私が働くことが当たり前に理解してくれた。むしろ、職場の上司でもあったため、妻としてではなく、いち理学療法士として職場に必要だと言ってくれた。

同業者の人なら分かるだろうが、リハビリ業界は同業者で結婚するケースが多い。うち(もう退職はしているが便宜上)の職場もそうだった。過去にも部署内で結婚したカップルは数組いた。ただ、夫婦がそのまま同じ部署で働くケースはなかった。すべてのケースで女性側が系列の老健やデイなどに移動するか退職した。表向きには希望となっていたが、同じ部署で働くことで周りに気を遣わすから暗黙のルールとなっていた。

私たちも覚悟はしていた。ただ、私は自分のやりたい仕事を続けたかった。結婚を理由に部署変更しなければならないというのは、理不尽だと思った。しかも、女性が移動する。夫婦で話し合ったが、夫は管理職ということもあり自分の意志で移動することは難しかったし、夫もまだ病院でやり残したことはあるようだった。そこで、上司に相談することにした。

上司「結婚後はどうする?老健かデイにいく?めぐみさんならどこでも活躍してもらえると思うし、大歓迎だよ。」

私「そのことなんですが、ワガママを言わせてもらえるなら、このままここで働きたいです。周りに気を遣わせたり、ご迷惑をおかけすることもあると思います。そこは理解してます。前以上に公私混同せずにやっていきます。それでもご迷惑をおかけするかもしれません。だだ、許してもらえるならもう少しここで、回復期病棟でやっていきたいです。」

上司「そりゃ、今抜けられたら困るのは確かやしね〜みんながいいなら僕はいいよ。自分たちはそれでいいの?やりにくくない?」

夫「僕は大丈夫です。」

私「やりにくさはあると思いますが、それ以上にやりたいことがあります。ただ、移動ということになれば受け入れます。その時にどうしても病院勤務がいいと自分が思うなら、転職も考えています。」

上司「わかった。幹部の会議でも聞いてみよう。」

光栄なことに私の意見は受け入れられ、むしろ残留を希望してもらえた。それによって私は結婚後も転職することも移動することもなく、やりたい仕事を続けることができた。直属の上司が夫のため、やりにくいことや周りに気を遣わせるという気持ちから気を遣いすぎたりすることはあったが、公私混同をしないように仕事に打ち込んだ。

その時に、不妊治療のことも上司に打ち明けることになった。急な休みや早退など迷惑をかけることもあると思ったからだ。できるだけ、現場に迷惑がかからないように調整はするが、どうしても急に休みが必要になることや、遅刻早退での対応を余儀なくされた。

不妊治療をしながら仕事をしていくうちに、夫婦での差を感じはじめていた。同じ職場同じ部署で働くからこそ、なぜ私ばっかりが周りに気を遣い休み調整をしたり、バタバタと通院しなければならないかと思った。不妊治療はどうしても女性の負担が大きくなる。それは分かっていた。ましてや夫はなんの問題もなく、私が原因での不妊なのだから、私ががんばらないとと思った。

そんな頃から、周りは私に配慮してくれるようになっていた。教育や委員会、その他の雑務を他の人が当たる中、私だけなにも与えられなかった。周りは不妊治療を理解し協力してくれようとしていた。いつ妊娠しても大丈夫なように配慮してくれていた。とてもありがたく感謝しかない……だけど一方で寂しかった。悔しかった。

夫「ラッキーやん。みんな気を遣ってくれとるんやわ。甘えたらええやん。」

夫はそう言った。たしかにそうだ。子どものことを1番に考えるならそうしたほうがいい。むしろそれを自然にしてもらえたのは、今までの自分の働きを認めてもらえたからだと思う。だけど、いつまで?自分が半人前扱いのような気がして、迷惑しかかけていないような気がして、自己肯定感はどんどん下がった。どこに仕事のモチベーションを持っていけばいいか悩んだ。役職が欲しかったわけではないが、結婚するまではその話しもあった。結婚と同時に全くなくなった。むしろ自分がやってきたことが後輩へ引き継がれていった。

それに引き換え、夫は結婚後出世した。事実上の病院リハビリ科のトップとなった。臨床家だった夫は出世を喜ばなかった。むしろ、できればなりたくないと言った。責任感のある人だから、与えられたことは全うした。ただ、管理職は向いていないと思っていた。

夫の出世はもちろん嬉しい。ずっと憧れていた先輩でもあるため、素直に嬉しかった。ただ、結婚といういっけん仕事とは関係のないことが、仕事にも影響するのだと痛感した。うちのような個人病院ならなおのことそうなんだと思った。

同時に同居が始まった。義母は女が働くことに否定的だ。何度も夫だけの稼ぎでやっていけるだろうと言った。『お金じゃない。』私はそう思ったが言えなかった。自己研鑽や外部活動に出ることはできなくなった。コロナも流行したから余計にだ。リモートで研修を受けることすら気を遣った。出たい研修の半分しか出られなかった。夫と理学療法の話をすることも気を遣った。義母の目が気になった。そうして、少しずつ諦める気持ちが強くなっていった。

不妊治療や出産など生物学的に女性しかできないこともたくさんある。男女平等というのは限界がある。それを分かっているからこそ、子どもが欲しいといいつつ、仕事を諦めきれない自分を責めた。責めると同時に理不尽だと嘆いた。悔しかった。女に産まれた自分が悔しかった。


そんな気持ちのまま2年ほど過ごした。何度も夫婦で話し合い、考え、悩んだ。


私は退職した。今は専業主婦だ。その話はまた次回に…③へ


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