見出し画像

女に生まれた私と仕事 結婚と仕事はどちらかを選ぶもの?①

お盆が終わりました。親戚の家に行ったり墓参りに行ったり、最終的には実家にて甥姪たちと全力で遊んだりと、久しぶりにお盆を満喫しました。
お盆が過ぎると夏が終わる気分になるのは、学生時代の名残でしょうか…

さて、今日はライフステージに応じた女性の働き方について書きたいと思います。


私の小さい頃の夢は、警察官、自衛官など堅く安定しさらに正義があり、社会貢献度がわかりやすい職業だった。

それは、完全に母の影響だ。両親は私が11歳の時に離婚した。父は建設会社で働いていたが、バブル崩壊直前に企業し独立した。その直後のバブル崩壊。新築購入も1番金利が高い時に買っていた。うちの経済状況はみるみるうちに悪化した。…らしい。そう、私は1988年生まれ。物心がついたころにはもう世間も家も崩壊していた。

そんな状況で母はとにかく働いた。パートを掛け持ちし朝から晩まで働いた。それでもローン返済と子供2人を育てていくにはキツかっただろう。そのため私は、

母「女でも1人で生きていけるような仕事につかなあかん。大学にも行ってしっかりした仕事につくんや!!」

と常に言っていた。その言葉を洗脳のように聞き続けた私はいつしか女1人でも生きていくということをテーマに将来を考えることになる。

私は人が好きだった。おじいちゃん、おばぁちゃん、子ども、、、社会貢献、安定、、、そうして選んだのが医療従事者だった。経済状況や学力を考えると医師や薬剤師は難しかった。そこで選んだのが今の職業理学療法士だ。中学の時に行ったトライやるウィークが決め手となり、中学から理学療法士を目指した。

余談だが離婚後ももちろん父からの養育費などはなく、母はいろんなツテを駆使して大手インフラ会社の準社員になって養ってくれていた。母は持ち前の社交性と根性で女でも1人で生きていける仕事についたのだ。今でも再雇用で働いている。


高校生時代までは結婚願望が全くなかった。男性のことを好きになることはもちろんあったし、人並みに恋愛はしたが、結婚にはいいイメージが全くなかったし、子どもが欲しいとも思わなかった。高2から付き合い出した彼氏との付き合いが4年を過ぎた頃、当時私は理学療法学科3年生だったが、彼の就職活動が始まった。

交際歴も長くなっており、お互いの親も公認だったこともあり、漠然と将来はこの人と結婚するのかなぁと思っていた。世の中はリーマンショック直後。就職氷河期だったが、彼は私との将来も考え、関西近郊で留まれるような会社を狙って就職活動をしていた。振り返ると私は自分のことで必死で1番苦しかっただろう就職活動に協力してあげることはできていなかった。有名国立大学に進学していた彼は、某地方銀行に内定が決まった。一方私は臨床実習が始まっており、必死だった。今でこそ実習指導の見直しがされており、学生にプレッシャーを与えないようになっているが、当時はそんなことなかった。寝れないことも当たり前で、休みもなく頑張っていた。理学療法士の勉強は好きだったから苦痛ではなかったが、必死だった。そんな実習で私は一度理学療法士になることを諦めかけた。経験年数10年以上たちいろんな理学療法士や実習生をみてきたが、あの私が経験した2ヶ月はやはり納得できるものではない。厳しい指導をする実習だったら耐えられた。私の2ヶ月はほとんどが車の中だった。訪問担当だった指導者のため、担当症例もなく家に上がらせてもらえないことも多く、車の中で待機させられた。他のスタッフから嫌われていた指導者の学生ということで、ひたすら挨拶も無視された。その時に私の夢は崩れた。大学は母のために卒業するが、理学療法士として働くことは夢みれなくなっていた。そんな私を救ってくれたのが、最初の就職先となる長崎県長崎市の病院だった。2箇所目の実習先となったその病院で最初の2ヶ月を取り戻すようにたくさんの指導を吸収した。尊敬する理学療法士に出会えた。

その経験は私に大きな決断をさせた。そうだ、私は母も彼も置いて、1人で長崎へ行くことを決めた。どうしてもそうしたかった。そこでしか働く勇気がなかったのだ。3年。3年たったら帰ってくるから結婚しようと約束して、長崎へ行った。

私たちは遠距離恋愛だったが、仲良く順調だった。だが、あまりにも置かれた環境が違いすぎた。2人とも自分の仕事に慣れるのに精一杯だったし、やっとイキイキと働けるようになった私はやりたいことがたくさんあった。3年なんて短過ぎると感じていた。就職して2年目のクリスマス。交際歴は7年を過ぎていた。

私「経験年数3年たったら社会人枠で大学院受験できるから受けてみたらどうかって誘われたんやけど…どう思う?」

彼「え?大学院?長崎の?」

私「うん。長崎大学。」

彼「え?3年たったら帰ってくるって言いよったやん。」

私「うん、それはそうやけど…結婚する気あるん?2人で一緒に貯めよって言いよった結婚資金貯金も私しか入れてないやん。」

彼「結婚はとりあえずめぐみが帰ってきてから考えたらええかなって思っとるけど、すぐじゃなくても。」

私「結婚するなら帰ってもええけど、そうじゃないならもうちょっとおりたい。そっちで新しい病院探してまた1からやっていったとして、またすぐ結婚で転職するとかなったら困るし…配属変わるかもなんやろ?」

彼「5年目まではどこに配属になるか分からんな。寮やから一緒には住めんけど、近くに住んでくれたらそっちに行くことはできるし。とりあえず帰ってきてよ。」

私「結婚するかもわからんのに、いきなり知らん土地に住むとか仕事探すとか難しい。それなら結婚しようよ。」

長崎でもう少しやりたい仕事があった。約束は覚えていたが、彼のためだけに関西に戻るとは思えなかった。かといって彼との将来を考えていなかったわけではない。実家に帰って数年でまた転職というのはどうかと思っていた。私の中では結婚と同時に長崎の職場を辞めて、京都に住み、転職するのがいいと考えていた。だから、彼がまだ結婚を考えれないのであれば長崎でもう少し仕事と勉強がしたかった。

彼「結婚は…すぐには…。でも一旦帰ってきてよ。もう、これ以上遠距離は嫌や。理学療法士はどこでもできるやろ?」

カチン。。。イラッとした。たしかに、理学療法士は全国どこでもできる職業だ。だが、働く場所によってやることも違う、この2年間で少なからずや役割や責任が私にもできている。私を認めてくれる上司や先輩、私を慕ってくれる患者さんや後輩、たくさんの人間関係を築き、スキルアップを目指して努力もしてきた。転職するということは、いくら資格があってもそんなに簡単なことじゃない。たしかに3年という約束だった。だけど、結婚しようというのも約束だった。現に私は結婚するなら帰ると言っている。そして、結婚に向けてお金も貯めている。それが私なりの彼への誠意だった。だから本当に彼が結婚しようと言ってくれていたら帰っていたと思う。それが良かったとは思えないが、きっとそうしていた。だが、きっと運命ではなかった。いや、お互いのタイミングではなかったのだ。

話し合いは平行線のまま、私たちは7年半付き合って別れた。悲しかったが、まだ長崎で仕事ができると思い、切り替えた。自分磨きをしようと思った。恋愛は軽い気持ちでするようになった。その場が楽しければいい相手を選んだ。

今思うと、若かったし、ワガママだった。自分勝手で結婚のことをしっかり考えれていなかったのは私のほうだった。あの時の彼とあのまま結婚していなくてよかったと思う。年齢は若かったし、彼の収入は夫よりもずいぶん多いだろう。子どものことも、もしかしたらもう授かっていたかもしれない。だけど、私はきっと後悔していた。そしてそれを彼のせいにしていただろう。

私は私の人生を自分で決めたい。転職も結婚も自分で決めたい。何かを諦める必要があるなら、なおのこと自分で決めたい。

女でも1人で生きていけるように。

きっと1人でも生きていける資格はもった。だからこそ、私は夫と生きたい。家族と生きたい。そう心から思えるようになったのはもう少し後の話…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?