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わかる<できる<<いつでもできる

ようやく宿題の意味あいが変わりつつある気配が見えてきました。
われわれが宿題を“やる”側だった頃、「宿題をやる=完成させる」が主眼であったことから、いつ取り組もうがとにかく「完成していれば」よかったことになっていました。言い方は悪いですが、答えを丸写ししようが、誰かにやってもらおうが、ひどい場合には「それっぽいかたちになっていれば」いけちゃっていた時代だったともいえそうです。

ところが最近は、いわゆる“やっつけ”で片づけてしまえば完了となる宿題よりも、完了に到達するまでの取り組みが見えてくる形態のものが出てきているようで、評価のしかたがどうなのかは置いておいて、「過程を評価する」側面が見えてきたのはある意味で進化したのかもと感じています。

ただ、年齢や経験を重ねて宿題を“みる”側になった場合、前述のように「完成させる」ことが中心となったままの視点で現代の宿題にあたると、それこそインターネットやアプリにかけてしまえば答えなんてすぐに出てきてしまうから意味がない!とか、それこそ答えだけ書いて合ってたらいいんでしょ?ということになってしまいます。

そこで、宿題は何のためにあるのか?が見えてきます。
昭和の時代、ある少年は「ぼくは宿題をやるために生まれてきたんじゃない!」とブチ切れていたようですが、そりゃあ“やっつけ仕事”ばかりが宿題ならばそうも言いたくもなるでしょうよ。
ただ、それは違うと言えます。今の自分なら。
宿題をやるのは、それを仕上げることそのものが目的なのではなく、その仕上げが自分でできるのかを確認するためのものであるとすれば、どうでしょう。
短時間でできれば何の問題もないし、手こずったのであれば、それはそれで何かしら課題があることが明らかになるわけですから、それなりの収獲や成果はある。そのひっかかりをどうするかは、別のテーマとして取り組む必要はありますが、それが明確になるというおまけもついてきます。
さらには、宿題に手をつけるのが当時は自分でできたとして、数日や数週間経ってから改めて自分でできるのかを確認することができれば、より自信を得ることもできるし、できなくなっているのであれば改めてできるようにすればいいだけの話となります。
実際のところ、前段の話を世間ではおそらく「復習」というはずなのですが、これを自律的・意欲的にやっている人ってホント強いんです。中には「復習」なんてしなくても強力な人もいますが、そのひとつはプロフェッショナル。つまりはそれを生業としている人。そりゃあそうですよね、それができないと仕事にならないんですから。もうひとつは自らの成長を楽しむことができる人。老いや衰えすら味方に付けることができる人は年齢や身分を問わず活き活きしています。

そうなんです。宿題や復習なんて本当はないほうがいいし、あると面倒くさく思えるのは人情ってものだと思います。
だけど、宿題があった方が自分の現状を見極めるにはやりやすいし、復習もテストがあるからとか入試や発表があるからとかいう理由があるからこそ、取り組みやすいともいえるかと思います。

大事なのは「わかっている」ことではなくて「できること」。そして言うなれば「やったことがあるならいつでもできること」。それを現認し続けていれば、いつだって自信を持って「できます」と断言できます。

それこそ、やったもん勝ちだと思うのですが、いかに。
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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