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自由なら制約がある方がおもしろい

とかく巷では「自由」を欲しがる声がでかい。
あれこれ制約を押しつけられるのがイヤ、好きなようにしたい、
上から目線が腹立つとか、わあわあ言うてはりますけど。
たぶんそれは「好き勝手」なだけで、「自由」とはいわない。

「自由」は「自(みずか)らに由(よ)る」と書きます。
自分の意思で、というほどの意味なのですが、この国の声の大きい向きは
「好きにやっていい」と勘違いしているところがあります。

例えば制服。自分は幼小中は制服、高大は私服の学校園に通いました。
高校はいわゆる標準服の設定があり、男子が学ラン、女子がブレザー。
それを適宜組み合わせて来ていた人が多勢でした。
自分は2年までは標準服そのままで通学していましたが、3年からは上着だけ紺ブレに替えた。理由は1つ。首元まで襟があるのが暑い。それだけ。
なので、事実上の一張羅での通学でしたが、自分にすればそれが「制服」だったという感じでした。

自分が卒業してからほどなく、教育実習で再訪した頃には標準服の設定水準が高まり、式典などの特別な行事への出席時には“標準服=正装”という位置づけになって、標準服の購入は必須となっていました。

ここで言いたいのが「標準服の購入必須=自由剥奪」なのか。
少なくとも、ここでは異なりました。
なぜなら、その答えは生徒会の意思、すなわち生徒たちの総意によるもの。
これこそが「真の自由」だと心得るのです。

何でもありというのは確かに自由という感覚がついてくるし、自らの意思が明確であれば必要なキーワードであることに異は唱えません。

ただ、特定の状況に高いレベルで対応するには、自身の閾値を高いところに持っていくだけの知見や経験、実力が必要です。
それがどうしても足りない、もしくは足りないことすら自覚できない場合はどうするか。
その答えが実は「制約」だったりするのです。
いや、「制約」ではなくて「選択の余地」のほうがいいですね。

ここ数年、公立の学校で標準服の設定に目新しい傾向が出てきました。
それは男女で別の設定だったものに対して、限定をなくしたというもの。
どういうことかというと、標準服のパーツを完全選択制にした。
上着はブレザー、ボトムはスラックスとスカート、アクセサリーはネクタイとリボン、これらを組み合わせるように定めた。
早い話が、男子がリボンにスカートを選んでもよくなった、ということ。
興味深いのは、生物学的な体格差はしっかり考慮されている点。
ファスナーにするなどで統一デザインにするところもあるようですが、ボタンの右前、左前もそのまま残して選べるようにもなっています。

制服に限らず、ある程度の制約があるなかで選ぶという方が、結果的に多数の人にとっては手軽に“高いレベル”の対応が可能になる。

創作も似たようなところがあり、お題もなくサイズ(大きさや字数)もなく、納期もない(笑)というのは、なかなかいいものが出てきません。
そこで何かひねり出そうというのであれば、あえて「制約」を加えてみると突破口が見つかるどころか、長く太っといベクトルがドドーンと未来に伸びていくところに立てるのではないかと思います。

そのベクトルは自分だけのもの。そこを走ることは自分だけの特権。
オリジナルはきっと、そこにある。

よりハイレベルな自由を満喫すべく、あえて制約をかけてみましょう!というオハナシでした。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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