見出し画像

孤独から一歩踏み出す

ちょっと聞いてくれや。

アメリカの人民寺院っていう悪い例があって、昨今でも心中っていう事件が後を絶たないから、社会が勘違いしがちなのだが、
自殺っていうのは基本独りで行うもの。
誰かを巻き込んだ時点で(少なくとも他の誰かを殺してしまったら)それは「自殺」とは言えないと思うのです。

鬱っていうのは孤独な病気と言われる。
この病気は「誰も助けてくれない」っていう感覚がじわじわ心に浸透して広がり、ついには自分すらも救えない状態になっていく。
結果、自殺という究極の安楽を手にするわけだ。

孤独とは、物理的に1人ぼっちになることだけを指すのではない。
同じ学び舎の下に100人の同級生がいたとしても、誰もその人を顧みないなら、誰もその人の真の友人足りえないならば、その人は孤独と言える。

親・兄弟・友人。これらに恵まれても、孤独な人もいる。
むしろ、”自分は恵まれているはずだ”という客観的観測と、心理的な孤独感の矛盾に悩み、悪化するパターンも多いと思う。
うつ病に悩む多くの人は(悲観的かつ)客観的な視点を独自に持っているって事を、経験から学んだ。

鬱では、「自分は○○ができない。あれもできない、これもできない」という思考に囚われると同時に、「他人がああしてくれない、こうしてくれない」と他人に不満を持つ症状も進行していく。
なので、なおさら孤独感が悪化し、結局自殺へと突き進むことになる。

鬱っていうのは進行性(それも場合によっては素早く進行する)かつ致死性のある重篤な病であるから、もうちょっと社会が目を向けてやらねばならんのではないかね?
言っちゃなんだが、高齢者は大いに長生きさせておいて、若者が死ぬほど苦しんでも放り出すのがジャパニーズ福祉なのか、と叫びたい。

で、私はどうするか。
他人すらも受け付けなくなった鬱は、流石に手に負えない。
ただ序盤なら、まだ何とかなるのでは?
話を聞くだけなら私にだってできるだろう。自殺を止めるために、様々な手段を提案することも可能だ。

鬱と孤独っていうのをラーメン屋のランチセットみたいに一緒に出してくるのが悪い。ただ鬱は医療の分野で、私が口出しできない。薬物療法に頼ることが、現代医学の主流となっている。
孤独はどうか。孤独なら、私がなんとかできるかもしれない。
まずは話を聞いて、状況を見極める。切迫している問題の解決方法を模索する。
なんとかならないかなって一緒に考える。
まずは全部肯定してあげる。辛かった。苦しかった。でも貴方は素晴らしい。

TwitterのDMは、常に解放されている。
私のはね。

読者諸兄はどうであろうか。
もし私の考えが正しければ、6000万人が「孤独の治療」のために私と同じことをしたら、自殺をゼロまで減らす事ができるはずだが。

ちょっと考えて、一歩を踏み出してほしい。
いかが。


インターネットを渡り歩いてまだ6年、色々なカテゴリを楽しみ、「消費者」として生きています。 そんな文化の消費者の毎日思ったことアレコレを書いていきます。雑記。