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セレンディピティー――『起きたことを喜べ』について考える。(その2):ハチドリ

 「セレンディピティ」という言葉を初めて知ったのは、確か今は亡き外山滋比古さんの本だったと記憶している。以来「セレンディピティ」という文字を見るたびに、その文章と筆者に注目してきた。私が知らなかっただけで、この言葉はとっくの昔から、世界中で使われている言葉である。

 外山さんの本では、『思考の整理学』や、『乱読のセレンディピティ』をはじめ、よく話題になる言葉である。『元気の源 五体の散歩』第7章「セレンディピティ」82頁から引用すると、

 18世紀のイギリスで、ホレス・ウォルポールという人が造り出ししたことばである。そのころイギリスで人気のあった童話「セイロンの三王子」からヒントを得てこしらえたことははっきりしている。
 この三王子たちは、たえずものを紛失していた。さがすが出てこない。ところが、さがしていない思いがけないものが飛び出してくる。思いがけない偶然の発見である。三王子はこのセレンディピティ発見の名人だった。
 そういう話をヒントにしてウォルポールはセレンディピティということばを造り、それが広まった。
 日本には、棚からボタ餅、ということばがある。なにも努力しないのに、偶然に、思いがけなく舞い込んでくる幸運のことを言う。棚ボタ、と略して言われることも多いほど親しまれている。労せずして、偶然に、というところは、セレンディピティに似ているが、棚ボタの方が、ずっと生活的である。
 セレンディピティにまず注目したのは科学者である。文科系の人では、いまもなお、このことばをよく知らないようである。 一般的にもよく知られているのは、イギリスのペニシリン発見である。フレミングが実験していたところへ土壌菌が飛来、それによって殺菌力を持っていることがわかった。飛んでこなければ発見はなかったわけで、人間わざではなく、神の手によるものだと考えることもできる。近年、セレンディピティ発見がいろいろあらわれ、ノーベル賞を受けるケースもある。

外山滋比古『元気の源 五体の散歩:「知」を支える頭と体の整え方』祥伝社、2014年、82頁
※太字は引用者による

とある。

 さて、本題に入ると、この外山さんの文章を読んだ時に、玉光神社の信者である私は、大神様の御神言を思い出した。
 それは、狐に放尿したから、たたって腹痛がおきたと思っている信者への迷信の戒めで、

わざわいは外からくるものではない、皆己から出て己にかえるものと知れ。また因縁の為に病気が出て、患うとしても、病気となって現れた時にはまず、医者にかかり手当てをせよ。医学も科学も世の中のすべてのものは皆、神が時代に応じて現わしているのだ。うやうやしく使えよ

本山キヌエ『玉光神社 教祖自叙伝』宗教心理出版、1975年、49頁
※太字は引用者による

という御神言である。

 外山さんは上記の文章でフレミングが実験していたところへ飛んできた土壌菌について、神の手かもと軽く書いているが、上記の御神言から考えると、大神様は時代の進歩に関わっているという事だから、私は本当にそうなのだろうと思ってしまう。神様の御導きとはこのような形なのかもしれない。

 だから私はセレンディピティは、神様の御手配による偶然の発見、偶然の幸運かもしれないから大切にしなければいけないと解釈してきた。
 世のセレンディピティ発見で偶然と言われることも、出会ったときにアンテナをたてていれば、気づきやアイデアにつながるが、アンテナが立っていなければ、偶然だからと捨て去ってしまうことにもなる。するとこの偶然はセレンディピティにならなかった可能性も大いにある。

 前回の「起きたことを喜べ」という御神言の話に結びつけて考えてみると、置かれた状況を前向きにとらえる感性をフレミングが持っていなかったとしたら、アンテナを立てていなかったら、青かびの皿を捨てて終わったかもしれない。すると抗生物質は誕生しなかったことになる。

 そもそも偶然は、いまだ法則性の分かっていない必然とも考えられるのに、偶然は偶然だからと軽視されやすい。しかし、発明発見の世界では、この偶然の発見が創造性と結びついている。アンテナの立っている人が発明発見するからである。アンテナの立っている人は起きた事を喜ぶ感性をもっているのである。

 人の場合は、偶然の出会いは縁があったという話になる。人の縁というものも不思議なものだ。たまたまというしかない人の縁が、友達の友達という風に縁が広がって、良い出来事に結び付いていった場合、この偶然の出会いには神様の御手配があったのかな?とか、見えない必然があったのかな?ということになる。いわゆる歴史のifの話になってくる。前回の教祖自叙伝の御神言によれば、人の縁は「現世であい見ると言うことは、最も順縁の者か、最も悪因縁の者だ。」となる。

 こんなことを考えていたら、中野信子さんの本『賢くしなやかに生きる脳の使い方100』220頁で

私たちは過去には戻れないから、この道を選んだことで生まれた自分の可能性や人との出会い、喜びや苦しみを、これで良かったんだと受け止める姿勢、偶然の出会いを楽しむこと、つまり、選んだ道を正解にしていく姿勢こそが、本当の頭の良さとなるのです。

中野信子『賢くしなやかに生きる脳の使い方100』宝島社、2023年、220頁
※太字は引用者による

という文章に出会った。
 これぞ乱読のセレンディピティではないか!
 「起きたことを喜べ」というのは、置かれた状況を前向きにとらえる感性が大事だという神様からの「そういう生き方をしろ」というみ教えだと附合した。

 人との縁の場合の方が、出来事よりも、選択の岐路という形で見えることが多いが、発明発見の場合と同じく、アンテナともいうべきスタンスが重要だ。アンテナは直観、感性、感度、あるいは問題意識とか、注意力とか、準備力とか、いろいろ言い替えることができるが、出会った縁を神様の御手配と感謝して、置かれた状況を前向きにとらえる感性が最も重要なのだなと思った。

 偶然を必然にしていく方法は、「起きたことを喜ぶ」という置かれた状況を前向きにとらえる感性を持って、行為・行動をしていくことなのだろう。神様はこのスタンスを教えてくれていると理解できてきた。