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玉光神社の「場所」の神学②(本山博の創造論):AM

前回は、玉光神社初代宮司・本山博の「場所」論、そして「絶対無」について、少し書きました。
その時に書いたように、「場所」と「絶対無」は(もちろん「場所」は一般的な用語ですが)、西田幾多郎の哲学から借用されています。

「自己限定」「自己否定」という言葉もまた、西田哲学からの借用ですが、これも例に漏れず、西田とは異なった意味で使用されています。

神の存在論:個と場所の二重性

本山博は1980年代後半に、主祭神である玉光大神様を「宇宙創造の神」と位置づけます。
この宇宙創造の神を、本山博は「最高神」「創造者」、そして「生死の場所」と呼びます。
「生死の場所」とは、私たちの肉体だけでなく魂など、すべての存在が生死する「場所」です(物理的な場所ではありません)。

ところで、本山博は神々の存在は七段階に分かれると言います。
その第七段階にいるのが創造者であり、第七段階が「生死の場所」であるわけです。
このように神という存在は、個性と場所の二つの性質を持っています
つまり、創造者は「創造者」という個性と「生死の場所」という第一~第六段階を包み込む場所の二つの性質を持っています。

第六段階以下にいる神々も、個性と場所という二つの性質を持っていると言います。
個性は神々の個体性であり、場所はその神々が支配する領域のことです。
つまり、支配者と領域が同じものだということです。
卑近な例で言えば、教師という生徒一人ひとりにはたらきかける個性と、教室という生徒が学ぶ場所、この二つの性質を神は併せ持つということのようです。

その領域(「場所」)の中には、教室に生徒がいるように下位の神々がいて、教師が生徒にはたらきかけるように、場所である神は「個」として下位の神々にはたらきかけをすると言われています。
さらに、その下位の神々の領域の中にはさらに下位の神々や人間がいるという入れ子状になっています。

「自己限定」による創造

ではどうしてそのような入れ子状の世界ができたのかというと、創造者/生死の場所が下位の神々を創造したからだと本山博は言います。

そして創造者が「自己限定」をすることが「創造」であると言います。

第六段階以下のものはすべて第七段階の究極的存在たる生死の場所の自己限定によって生じた

本山博『超感覚的なものとその世界:宗教経験の世界』1990年、宗教心理出版、220頁

「自己限定」とは、上のレベルの存在が下のレベルの存在となることを言います。
下のレベルの存在になるということは、能力(「はたらき」)は制限(限定)されたものとなります。
そして、「自己限定」した存在は、元々の存在とは別の存在、別の個性を持つ存在となるということのようです。
(ここでい言う「存在」とは何か、ということは大きな問題ですが、本山博自身は詳しく論じていません。)

そして、創造者が「自己限定」を繰り返した果てにいるのが人間です。
ですから、人間はもとは神であり、その神をさらに辿っていくと創造者に行きつくというわけです。
ですから、私たちは「創造者に還る」ことができると本山博は説きます。
(言葉は西田的ですが、この創造論は、どちらかと言えば新プラトン主義的、あるいは神智学的です。)

創造者に還るためには、自分が単なる人間(個)ではなく、神(場所)であったことを思い出さ(自覚し)なければなりません。
そのためには、今の「自分」を捨てる必要があります
これが「自己否定」です。

本山博の「創造論」の相対性:「教え」を信じても崇めない

このような創造論は、教祖・本山キヌエ時代に説かれていたものではありません。
また、その真偽を確認・実証することも容易ではありません。

この「世界の始まり」のような超越的な話は興味深い話ではありますが、簡単に形骸化、固定化、絶対化するものでもあります。

しかし、本山博自身、自身の教えの絶対化を否定していたように思います。
例えば先ほど示した「存在の七段階」という考え方について、このように述べています。

各宗教体験家による精神〔的存在である神々〕の階梯の分類は、上述のごとき諸種の条件〔各自の宗教経験、性格、学識、所属の宗教団体の教義、国柄、周囲の環境等〕によって定まる相対的なものである〔中略〕私は、自ら行ずるヨガ行法の説く七段階説に拠って、精神の段階を七段階としよう。

上掲書、181頁(亀甲カッコ内は引用者による。以下同)

存在の段階の分け方は、体験者の時代・社会・文化等によって異なるということです。
つまり、本山博の示した七段階という分け方も絶対的なものではなく、相対的なものであると本山博自身が自覚していたということです。
こうした相対性、つまり絶対正しいわけではない、他との比較が可能である、ということは、おそらく創造論にもあてはめることができそうです。 

例えば、本山博は、いくら宗教経験をしたとしても、神(場所)の意識を人間に直接伝えるのは不可能だと言います。
そのことをイエス・キリストを例に出し、このように言います。 

〔イエス・キリストが弟子に比喩を多く用いて教えを語ったのは、イエスが感得した〕場所の意識は個(人間)に理解し難いがゆえに、この人間的意識に理解される言葉、比喩を用いて伝えんがためであろう。〔中略〕ここに宗教の世界の多種多様な表現、宗教宗派の分裂の一つの原因が存するように思われる

上掲書、209頁

いわゆるジョン・ヒックの「宗教多元論仮説」に似た思想ですが、宗教的な思想(真理)を宗教家が体験的に摑んだとしても、そのまま伝えることはできず、言葉にする時には不完全なものにならざるを得ないと述べています。

ということは、本山博の「創造論」もまた、本山博が体験的に理解したことを言葉にしている時点で、言葉では表現できない部分が残ると考えられます。

もちろん、信仰ですから「信じる」ことも大事ですし、
本山博もそこに真理が含まれるので、こうした究極的なことを語っていたはずで、それを信じて欲しいと願っていたと思われます。

そうだったとしても、これまで見てきた本山博の言動から、
「教え」そのものを神様みたいに崇める必要はないということは、類推することができそうです。
そうであるならば、「創造」のような途方もないことに関して、一言一句が正しい(絶対)かどうか考えるよりも、本山博が創造論を説いたことの意味を考えたり、創造論を説くことで伝えたかったことを考えたりする方が、よっぽど建設的な気がします。

西田幾多郎から随分遠いところまで来てしまいました。
こうした本山博による西田哲学用語の借用、あるいは(意図的な?)誤用は、真理の言語化の困難さを示しているとも言えるかもしれません。