見出し画像

聖地はいかに生まれ、引き継がれるのだろうか(詩島 コープオリンピア 井の頭公園):ひろり

遠い昔から連綿と続けられる人々の祈り、多くの人々が集まって祈りをささげる場所は聖地となって、長い歴史を経て、断続的に同じ場所で聖なる祈りが繰り返されていく。そしてそこは人々にとって忘れられない故郷になっていく。

世の中で大活躍している芸術家の中には、神秘的な体験をする人がいる。シンガーソングライターとして昭和、平成、令和と活躍し、70歳を過ぎた今も現役として大活躍されている歌手のさだまさしさんとユーミンさんは、若いころそれぞれの聖地において一生忘れられない体験をしているという。

さだまさしさんは、1980年ごろに、恩人の勧めで、長崎の大村湾に浮かぶ無人島「寺島」を購入し、かつて近在の隠れキリシタンの集会所だった島の東の丘の上の「聖地」に、大宰府天満宮から神様を勧請して、「詩島天満宮(うたじまてんまんぐう)」を建て、島の名前を「詩島」とした。1980年8月11日の遷座祭のときのこと、(以下引用)

この晩のことは今も忘れない。(中略)神官達の警蹕〔引用者注(亀甲カッコ内は以下同):けいひつ=神事の際に先払いの神官が掛け声をかけてまわりをいましめること〕の声に導かれて御旅所の結界を開き、僕〔さだまさしさん〕は信良氏〔当時の大宰府天満宮権宮司 西高辻信良さん〕の抱えるご神体と共に國學院高校時代の恩師と後輩達が務める「絹垣」〔神社から御神霊を移すとき、御神霊が人の目に触れないようにするため、神職たちが白い布で周りを覆うもの〕に囲まれて驚いた。祭主の後ろを、慣れない沓で歩くだけでも骨が折れるのに、何故か「絹垣」の中がひどく涼しく感じたのだ。やがて歯が鳴るほどの寒さを感じた。決して緊張しているせいではない。「絹垣」の中は8月11日の長崎とは思えぬほど確かに寒かったのである。そして味わったことの無い程の清浄な空気が際限なく肺の中に入ってきて、目を閉じれば肺が大きく膨らんで自分の身体を包み込むような気持ちがした。自分でも何が起きているのかを正常に認識できず、ふと見上げた空に、噴きこぼれるような「天の川」が見えた。元々オカルティズムや神懸かったことに猜疑心の強い僕の心の中で、それまで「概念」に過ぎなかった筈の神が突然「実在」した瞬間であったろう。20分ほど、漆黒の闇の中を、松明の灯りだけを頼りに寒さに震えながら歩く。お宮に辿り着くと、ご神体は祭主の手で直ちにお社にお鎮まりいただく。そして「絹垣」が開いた瞬間に体中の汗が一気に噴き出したのに吃驚した。誠に不思議な不思議な体験だった。

さだまさし『さだの辞書』岩波現代文庫、2024年、84~85ページ

ユーミンこと松任谷由美さんは、子供のころから、ピアノが鳴らす美しい音に、色が見えたそうだ。(以下引用)

鍵盤に触れる指先は、ゆらゆらと迷いつつ、コードを探す。由実の瞳にコードは色つきの光のように映るから、どの音が和音として成立した組み合わせなのかは直感的につかめた。理論に縛られず、きれいな色彩を放った音を、ただキャッチすればいいのだ。次にどのコードへと進むのが正解なのかも、色彩が教えてくれた。絵を描くように、きれいな色を追いかけるうちに、いつの間にかその連なりが、楽曲へと昇華していくのがわかった。

 山内マリコ『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』マガジンハウス、2022年、
160ページ

そんなユーミンさんが、高校1年生のとき、原宿のコープオリンピアの友人の家で、友人たちとホームパーティーをやって、宿泊した際に不思議な体験をした。(以下引用)

そのときだった。体を起こそうとしても、ピクリとも動かない。金縛りだ。(中略)そいつが来た。そいつは、床に寝転がる男の子や女の子を避けながら、リビングの奥までひたひた近づいて来ると、ソファに仰向けに寝転がる由実の上に、馬乗りになった。由実はずしっとした重みを胸に感じながら、目をぎゅっと瞑る。見ないようにしても無駄だった。そいつの恐ろしいシルエットは、目を開けなくてもくっきり見えた。(中略)それからヤギ男は、由実の額に向かって交信してきた。ヤギ男はなにも言わなかった。だけど、彼がなにを伝えに来たかは、はっきりとわかった。(中略)由実ははっきりと、昨夜ヤギ男から受け取ったメッセージを反芻していた。そいつは由実に、ただ〝成功〟を約束したのだった。成功?一体なんの?成功がなにかも、由実にはわからなかった。(中略)由実はこの日のことを永遠に忘れなかった。のしかかられたときの重み、額に感じた交信する感触。そして次第に、あのとき交わされた約束は本当だったんだなと思うようになる。

同上 224~225ページ

 コープオリンピアはユーミンさんにとって「聖地」となった。

現在玉光神社がある、井の頭公園の南側の土地は、1990年代のはじめに、神社内に会館を建てるときに、遺跡指定地だったため、三鷹市による調査があった。それによって、井の頭公園の南側には、6千年前~8千年前に大きな集落があり、公園の池に面した斜面には、祭壇があって、神様のお祭りをしていたことが、出土した土器などからわかった。井の頭の水は湧き水でこんこんと水が湧き出て、何千人もの人が生活でき、大酋長がいて祭祀と政治を司り、深大寺その他の集落の酋長たちと交流があったという。
玉光神社は戦前の昭和12年から戦争中にかけて、原宿駅から青山通りに抜ける表参道の左側の現在の「アルテカプラザ原宿」のあたりの借家にあった。ちなみにユーミンさんが「ヤギ男」から成功を約束されたコープオリンピアは、「アルテカプラザ原宿」の向かいに今でも建っている。
戦時中、玉光神社のある信者が、事業が成功した御礼に、表参道の教会の周辺に土地を買って大きなお宮を建てたいと申し出たところ、ご祭神である玉光大神の御神言があって
『今ここへ社を建てる事は無駄になる。志は嬉しいがしばし時を待て。吾が十年後に社を建てるために定めおく所は、これ(明治神宮参道前)より西北に当たり、そこより南西に霊峰富士が見え、木立の中に清い清水がわき、西から東へ流れるその小川のほとりに定めてある。その時こそ力を添えるように。』とのことであった。
それから11年後の昭和24年4月8日に、御神言どおりの場所である現在の井の頭公園の南側の地に神社が建立された。(本山キヌエ『玉光神社 教祖自叙伝』宗教心理出版、1975年、101ページ)
悠久の時を経て、聖地は引き継がれていく。