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連載小説。⑦「網代裕介」

 自分の潔癖さの原因はおそらく幼児期の性的な体験だ。幼女の私はその快感を知っていることを隠していた。知っているという意識が自分という存在に価値があるような高揚に繋がることもは稀で、常にあったのは、汚いトイレの踏むのが嫌な汚れが自分みたいなものだという、人や世の中への引け目だった。この先は何もかもが枯れるのだし、もう諦めるしかないのだという憂鬱の下で耐えていた。それを隠さなくてはと思って無邪気さについて研究し、振舞った。一人で田んぼの蓮華を見ているのが好きだった。
 東北のイタコは私と同じ女児が就く職業らしいと大人になって知った。夏目漱石の妻、境子を「道草」の中にずかずか入っていって、漱石と一緒に抱きしめたいのに、冷たい水を口に含んで境子の口に運びたいのにと思った。
 無意識に何かがあたり、意識が高ぶる。脳に集まるとても細かな、煙るような埃のようなものが大きく膨らんでいき、私の輪郭をぼやけさせる。そして輪郭は滲み、ふと消えてしまう。茫洋とした私はどこまでが私なのだろう?世界がどんどん私の中に入ってきてしまいそう…。突然知らない子を指さし、あの子がとても可哀そうだと泣き出す。とても可哀そう…そうやって私が霧散していく。

 大学の時に処女ではなくなったが、その時、相手の気持ちがよくわかるし、自分の気持ちを相手も知っているのだろうと確信できるという特別な関係を知った。次に何を言えばいいのかわからなくなり、困る関係だ。え?と空白になり、動けなくなる。伝えたい気持ちが募りこう言ってみる。
「月が綺麗ですね」。
 本当は「いつも味方してくれてありがとうね、私も絶対にあなたの見方をするよ」とささやき合う単純で美しい二人の子供に過ぎないのにと知りつつ、そう言うのだ。
 生き物の私は、生き物の自分を超えることなく、目の前のお菓子を食べるのに、特別に贔屓したい人のためにその自分を超えてしまうことがある。お菓子食べる?とうっかり尋ねてしまうのだ。大好きだからこのお菓子を食べさせたいと痛切に思い、自分のお菓子をその人の前に置く。

 デイルームの席は決まっている。私の向かいは50代半ばの女性で、私に離婚した経験があると知ると、お正月はどんな料理を毎年作るのか?と尋ねた。お寿司屋さんではマグロも食べるが、ヒラメが一番好きで、お肉は最近赤身をよく食べるようになった、重い赤ワインよりひねりを感じる白が好みだ…自分には子供がいないが、友達の娘がとても可愛いい。学短の2年で、私のことが心配らしく、手紙をたまに寄越す…そう話す。
 女性の隣に座る浜ちゃんが「顔可愛い?」と聞いた。女性は浜ちゃんの方を見ないで「モデルみたいな顔。とても美人さんなの。男性からよく声がかかるから友人も心配だったらしいけど、きちんとした子だから。そういう不安もないと私が言ったの」と私に説明するように言った。
 女性が立ち上がると、私の隣に座る20代の男性が「あのおばさんさ、浜ちゃんのことガチだよな。浜ちゃん相手できる?」と椅子にもたれ掛って足を前に長く出して言った。二人の性的な会話が始まる。男性の日常的な会話、オナニーの話だ。薬のせいか勃起しにくくてさ、時間がかかるんだよ…
 女性が浜ちゃんのいないところで、「浜ちゃんの食事の仕方を見ていると食欲をなくすことがあり、育ちはそのその人のせいじゃないが、その人の運命だし、その運命から人は出られないということについて、私はよく考える」と訴えるような、激しい口調で話すのを、私は聞いたことがあった。

 夜、そのメンバーが夕食後にテーブルに残り、素人のカラオケコンテストをテレビで見た。女性が画面を指さしつつ振り向くと、二人の男性が笑って女性に答える。「今度、外出の許可を取って、この4人でお寿司を食べに行きましょうよ。私あなたたちみたいな純粋で正直な男の子たちを頼りたい気持ちがあるのね…お金なら別に」と女性が言うと、それいいねえと歓声のような声を二人が出した。私は青ざめるような気持になり、デイルームから出た。洗濯機が置かれる部屋の前まで来ると、廊下に置かれた長椅子に座って目を閉じた。私が立ち上がり、少し辛そうに歩くのを、あの3人はなじられるような気持ちで見ただろう。羞恥心も、そして私に対する怒りも感じただろう。私の姿を、「仕方ないのに」と呪いを込めて見ただろうと思う。私のことがまるで自分を昔こっ酷く振った人に見えたかもしれない。彼らの焦燥が私に侵入してくる。また捨てられるという爆発するみたいな焦燥で身体が燃えていくような気がして仕方ない。

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