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連載小説。「網代裕介」⑫

 網代君を見送り、ひとりで病棟に引き返した。建物のドアの前で立ち止まり、なんとなく空を見上げた。空が高いなと思う。田園の秋の空だ。憂鬱な関東のはずれ。どんな季節にも贅沢さなど感じることもない。そこまで惨めでもない。そういうものだと言いたげな、水中に沈む田園の都市に建つ精神病院で暮らしている気がする。ドアがやけに重かった。

その日、私は静かだったと思う。言葉が口まで上ってこないのだ。まあ、言わなくていい…そう思ってしまう。口を結んで過ごした。しゅんっとした気持ちで自分を守って生きていこうだとか、手を洗いつつ決意したりした。部屋に戻ろうと歩いていると、男性4人が話しながらこちらを見ている。不良っぽい所作と雰囲気だ。いつまで私たちはそんなふうなんだ?と思う、そして形を変えるのを禁じられ、閉じ込められているという被害を実感するような思いにもなる。

 夜、デイルームに最後までいたのは私だった。その日のテレビ番組が特別つまらないらしく、いつもなら消灯の時間ぎりぎりまで居座るメンバーがその日に限っては早寝をしようと思うのか、部屋に戻ってしまった。なにか腑に落ちない夜だった。おかしいな…という気持ちのまま、デイルームにひとりでいた。やけに明るい。なんとなく周りを見渡したくなる。そしてニュートラルとしか言いようのない気持ちだった。どこかの食堂にいるような錯覚がふと起きる。病気ではあるものの、精神の病気ではなく、体にガタが来てしまったという人が集まる、大きな病院の天井が高い明るい食堂だとか、たくさんの人が働く会社の事務的な社員用の食堂であるとか、そんなところにいる気がする。浮かれた気分ではないが、肩の荷が下りたような気持ちだった。ニュースが最後のコーナーを映している。明日の全国の天気を簡潔にまとめて伝えるのだ。明日はよく晴れる、洗濯ものも乾く。けれど乾燥するから火の元に気を付けて…私はそれを聞きながら、テーブルにノートを広げて目を落としていた。ボールペンを握り、たまに文字を書く。けれどたまになのだ。書きたいことが沢山ある気がしてノートを持ってきて広げたものの、単語を切れ切れに思いつくだけで、センテンスにもならない。単語をノートに書いてみる。自分の書いた文字を見て、「あれ?」と思う。

 ニュースが終わり、CMになった。顔を上げて、背もたれにもたれながらそれを見た。ポカリスウェット、キリンラガービール、紺色の乗用車…。
ぼんやり見ていると、夜勤の看護師がゆっくりとナースステーションの前を通っていく。男性の看護師だ。
「部屋に帰るときに、このリモコンでテレビを消していってな…」
どこか見えないところにブラックホールがあり、そのドアが開けっぱなしというようだ。ブラックホールに音が吸い込まれていく。空気の中で音が流れていく。私はノートを閉じて、ゆっくりと立ち上がった。ノートやペンやプラスチックのピンクのマグカップを抱え、リモコンでテレビを消した。そしてデイルームを出た。

 病室に入ると同室の認知症のおばあさんは寝入っていて、ほっとした。おばあさんは起きていると、暗闇で自分の体を拘束するベルトの留め金をカチカチとずっと鳴らし続けるのだ。それはそのおばあさんの人生の話を話し続けているみたいだった。規則的なリズムと、休まず、変わることなく続くカチカチという音。
それを聞いていると、わかってあげたいという思いが湧く。私もたまに理解されたいと思うことがある。理解など求めないで生きている。その方がよほど傷つかないとよく知っている。「だけど私だって」と言いたくなるのなんてそんなにはない。

 窓辺に立った。外からこちらが見えるはずがない。それほど、周囲に何もないのだ。カーテンを開けたまま寝ようと思い、カーテンを端に寄せた。つるりとした窓に室内の蛍光灯や天井の様子が映っている。いつもこれを見ていきたなと、飽き飽きした気持ちが湧いた。ベッドに上り横になった。

 部屋は暗いけれど、割と見えるものだ。白い包布の掛けられた毛布を引っ張り、寝返りを打ち、目を閉じた。セミロングの髪が、枕に広がっているだろうと思う。それを私が見ている気がする。枕に広がった髪が、体の動きに付き纏うように形を変えていくのを見ているような気がしている。少し固く目を閉じた。

 あ、もしかしたらここは空港のロビーじゃないだろうか?ふとそんな気がして、パチッと目を開けた。窓を見ると、壁一面が窓になっていた。しかし、暗い。外は見えない。きっと地面が見えるはずだと下を覗いて注視しても地面は見えない。また遠くへ行くのだとしても、もう私は慣れっこだ。どこで、誰と暮らそうと、本当は何も変わらないのかもしれない。ここじゃないという気がいつもしてしまう。そういう私が本当はすべて悪いのかもしれない。不幸を呼び寄せるのはそれなのかもしれない。繰り返した。もう今は、戻らなくてもいいという安心が今胸にある。その安心した気持ちに、小さな心配が混じっている。もし、後悔したら?後悔することがとても怖いのだ。
 いつも仕方がないのに。いつもそうでいられなかったからなのに。

 少し疲れを感じベッドに身体を投げだした。目を閉じ、じっとしていると、体が痛み出した。体全身がどういうわけが痛いのだ。うつぶせになった。足を折り曲げた。這いつくばった。手を前に伸ばした。痛みに耐える。おそらく私は今会いたい人がいる。そしてその人に触れたらいいのにと思っている。ああ、と声が漏れた。体がすごく痛くて…
…私は私を置いて出た。

 きっと今ごろ、網代君は旅館の布団で寝ているのだろう。寝ていることに網代君は気づいたりしない。それを羨ましいと思う。その寝顔を見たら泣いてしまいそうだ。私は網代君に嫉妬しているのだ。
 私だって私の中にいたいのに。いつも網代君でいる網代君が羨ましい。

 網代君がいる。そしていつもの私に庇護的な顔で私に言う。
「服を脱いで」
私は俯いてパジャマを脱いだ。顔を上げると、網代君はまだ庇護的な表情のまま、笑っていた。つい私は言いたくなる。
 「網代君、私を覆って」
体の痛みは消えたが、もう私の中に閉じ込めていられないと思った。それは欲だ。網代君が私を解放した。網代君の前で私は動物みたいだ。何か言いたくてたまらない。声を出したくてたまらない。自分をそれでいいと思える。口を閉じ、まるで生まれてよかったと泣き出すような顔つきで網代君の顔を見上げた。
 こういうことだ…私は屈服したい。網代君に征服されたくてしょうがない。網代君は私を黙って許すだろう。

網代裕介⑬



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