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連載小説。仮題「網代裕介」⑪

 旅行の日の朝も網代君は早朝の勉強を欠かすわけではない。コーヒーを飲み終わるころ、デイルームは昇り詰めるみたいに明るさが増し、ごちゃごちゃと散らかり、賑やかになる。二つ置かれたテレビから、朝のテレビ番組が流れる。その日の占いについて、誰かが不満を言い、誰かが歓声を上げる。じゃんけんに生真面目に応じる中年の男性がいる。いつも通り朝食を済ませ部屋に戻り、膝を立ててベッドに座った。外を眺めると、明るいひらけた景色が見える。職員も患者も車で来る人が多く、広い駐車場に様々なステイタスの車が民主的に雑多に並び、病院の周りの煤けた幹線道路、倦怠期とか鬱屈などという言葉を思い起こさせる田園が広がり、林の向こうに小学校の屋根が見える。

 廊下で網代君が私を呼んだ。ベッドから降り、雑にサンダルを履いてドアを開けると、黒のVネックの薄いニットとブルーのジーパン、アディダスの白いスニーカーという格好の網代君が、リュックを片手にぶら下げながら、「おふくろが話だって」と少し笑うような表情で言う。
「え、そう」と言ってから「ちょっと待って」と言ってドアを閉めた。ベッドに戻り、慌ただしく壁の収納棚を開け、デニムのスキニーを取り出して履き替えた。お待たせと言いながら部屋を出て、前髪を押さえながら網代君の後ろをついて歩いた。
 入院の日に私とS医師が病棟の中を二人で散歩するみたいにふざけながら歩いていたら、S医師に何かを笑って話しかけた看護婦がいた。その看護婦が廊下を歩いていた。私たちをちらりと見る。その看護婦はその時S医師の「何か用ですか?」という返答に笑ったまま口ごもり、つかつか洗面所に近寄り、勢いよく水を流しはじめた。S医師を責めたかったが、そういったことがどうにもならないことだと知っている。S医師はたまに「民度」という単語を使って私と冗談を言い合うことがあった。S医師は私を大切にした。大切ではないものと大切なものを分けろと私にも迫った。さっき看護婦の視線を感じた時、また自分の運命を呪いたくなった。そうじゃないのにと思ってしまう。「あなたにはそう見えるかもしれないけれど」と言いたくなり、ふと、それも仕方がない、みんなそういうものだからと思い直した。

  網代君のお母さんはデイルームの真ん中辺りのテーブルに座っていた。ショートカットで長袖のからし色のポロシャツを着ている。チノパンにスニーカーといういかにも少し山の中をぶらぶら歩くという格好に見えた。
 私たちが近づくと口早に網代君に「そんな恰好でいいかね、上から羽織るもんないと…」と言うと、網代君が大丈夫だという意味のことを伝えた。網代君は優しい息子といった感じの話し方だった。    
 「さとみちゃんっていうの?どうもね、いつも、コーヒーもらってるんだって?さとみちゃんの分がなくならない?」
 意外に思った。いつも子供に謝りたそうに忙しく面倒を見る母親という感じの女性だった。太っている。亡くなったお父さんが網代君の生みの母親を苦しめてまでも一緒になった後妻さんといった女性に対する私の勝手な先入観に罪悪感が湧く。私はできるだけしっかりと挨拶や返事をし、快活に振舞ったつもりだ。網代君はお母さんと私に対し、異なる話し方をするが、どちらも身内と話す雰囲気だ。気のせいかもしれないが、お母さんの網代君を見る様子が惚れ惚れと見惚れるといったふうである気がした。私には網代君が鮮やかな手腕を持つ大人に見えた。 
 3人でひとかたまりになり、デイルームを出て、階段を下りる。温泉旅館食の食事や風呂、今日明日の天候などについて話す。賑やかな休日の雰囲気を3人で楽しんだ。私は長く曜日や祝祭日を失っていた。曜日や休日にあまり意味がない年月を長く過ごした。  
 病棟のあのドアを網代君が押して開ける。駐車場に並ぶ車の中を縫って歩く。たいていのセダンが私たちの目線より車高が低い。お母さんが先導をしようと前に出た。網代君と私が二人並び後になるがお互い何も口から出てこない。突然雀の声に気づく。網代君にも今聞こえているだろうと確信する。大群というほど多くない数の雀がどこにいるのかわからないが、鳴いている。前方にグレーの四角張ったセドリックが停まっている。お母さんはその窓に向かって何か言っている。手で道路を指したり、その腕を大きく回したりする。私は立ち止まった。そして網代君に「気を付けて。楽しんできてね」と言った。網代君は「おう」と言って、車まで早足で近づいた。乗るときに私を見たが、手を振るとか笑いかけることはなかった。お母さんが私に届く程度の大きな声で「さとみちゃん、ではまた。お土産楽しみにしてて…」と言いながら乗り込んだ。言葉の最後は聞こえなかった。
運転席から男性が顔を出し、私に頷くように会釈した。お兄さんなのだろう。網代君より小柄で真面目そうな顔つきの人だった。確かに博識そうな眼鏡を掛けている。そしてオシャレだった。お兄さんは子供のころ、網代君に優しくいろんな話を教えたのだろう。二人はいろんな話をしながら育ったのだろう。
 車は田園の中をまっすぐ走っていく。それを私は見ていた。そして見えなくなる。その方向にスカイツリーが見える。そのスカイツリーのある空が赤く見えた。まさか夕日というわけでもないのにと不思議に思った。しかしそれ以上考えない。考えても私にはおそらくそれがなぜなのか分からないのだから考えたりしない。

網代裕介⑫


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