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昭和経済史④アジア太平洋戦争中の経済

昭和経済史の第4回目は、アジア太平洋戦争中の経済です。

前回では戦時統制3法が成立し、資源や国民の労働がすべて軍事に活用できるように制度が構築されていった様ををまとめました。

今回はアジア太平洋戦争中、初戦の勝利から敗北までの軍需産業の経済がどのような過程を経ていったかをまとめていきます。


1.アジア太平洋戦争開戦

東條内閣はギリギリまでアメリカと交渉を試み、石油の輸入解禁と引き換えに南部仏印の北部への撤退といった案を出しますが、これまで散々やらかした挙句に出した「妥協」としては甘すぎでした。
合意はできず、最終的にハル国務長官の通告、いわゆる「ハル・ノート」が突きつけられるに至ります。これは日本の満州からの撤退を要求したもので、「重要産業5ヵ年計画」が達成できなくなることはもちろん、それまで日本軍が払ってきたコストや命をすべて放棄せよという厳しいものでした。日本側からすると、血も涙も無い要求だということになりますが、アメリカ側からするとこれまでの対応に問題がありすぎたのでリセットボタンを押したということになります。無法者が暴れたら嫌なので石油の供給を続けてきたが、もうこれ以上エスカレーションするのは許されないというわけです。

日本は開戦を決意し、1941年12月8日、ハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃し、アジア太平洋戦争が始まります。

日本海軍の攻撃で炎上する戦艦「アリゾナ」

当初日本軍は、想定していた以上に有利に戦況を展開し、開戦後半年で東南アジアのほぼ全域、ニューギニア島やニューブリテン島、ソロモン諸島など一部メラネシア地域にも占領地域を広げました。中国大陸では上海の租界や香港を占領するなど、いわゆる「大東亜共栄圏」が実現する領域まで拡大しました。

日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)
Autor: San Jose CC 表示-継承 3.0
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Second_world_war_asia_1937-1942_map_de.png

この時の政府は勝利に浮かれ、大東亜共栄圏の構想実現のため、5年後・10年後にどの地域からどのくらい資源を開発するかや、占領した地域を将来的に誰がどうやって統治するかなどの議論を行っていました。連合国軍の反撃に備え、船舶や航空機の増産を図るといった計画はあがらず、戦前にたてた見積もりで戦争を遂行できると考えていたようです。

しかし日本の戦勝気分は半年しかもたず、1942年6月のミッドウェー開戦で4隻の空母を失ったことで、日米の戦力バランスは大きく均衡が敗れ、以降は局地戦で日本が勝つことはあっても、全体トレンドだと連合軍がジリジリと占領地域を奪い返していく流れになっていきます。

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