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15世紀イタリア・チェンチ家のスキャンダル事件

※本記事は徹頭徹尾胸糞悪い話ですので、そういった苦手な方は閲覧をご遠慮ください。

15世紀~16世紀はイタリア・ルネサンスの黄金時代。

繁栄する工業や交易で上がる富を背景に、メディチ家のフィレンツェを筆頭に、ミラノ、ヴェネツィア、パルマ、フェッラーラなど諸都市で芸術や学問が花開きました。「チェンチ家の悲劇」は、イタリア・ルネサンスが終わりを迎えた16世紀末、1599年に起きたゴシップ事件です。

この事件は当時非常にショッキングな出来事で多くの人の関心を集め、この事件をテーマに様々な文学や音楽、映画作品が生まれています。

ロマン派の詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの「チェンチ一族」、アルベルト・モラヴィアの劇「ベアトリーチェ・チェンチ」が有名。ベルトラン・タヴェルニエの映画「パッション・ベアトリス」はこの事件を下敷きにしています。

ではここから本題に参ります。

チェンチ家の道楽主人フランチェスコ・チェンチ

チェンチ家はローマの伝統ある家柄ですが、16世紀にクリストーフォロ・チェンチが枢機卿となり、ローマ政庁会計院の役人として莫大な富を築きました。クリストーフォロは聖職者にも関わらず身持ちが悪く、人妻を孕ませ男子を生ませました。それがフランチェスコ・チェンチです。

フランチェスコは親父が築いた財産で遊びほうける典型的な道楽息子に育ちました。成人してからはエルシリアという金持ちの家の女と結婚し7人の子を儲けるも、親父以上の身持ちの悪さであちこち女の尻を追いかけていました。フランチェスコは性格も最悪で、ちょっとしたことでも怒り狂い手を出すような男でした。

1577年、本事件の主人公であるベアトリーチェが誕生。1584年、彼女が7歳の時に母が亡くなり、ベアトリーチェは姉アントニーナと共に僧院の寄宿学校に入れられました。

1590年、法王シクトクス五世が崩御し、2年後に新法王クレメンス八世が選出されます。新法王は乱れた教会の道徳を正そうとし、そのやり玉にフランチェスコが上がることに。

フランチェスコは相変わらず女を追いかけることに余念がなく、快楽を追求した結果とうとう少年にまで手を出していました。このようなフランチェスコの乱行をクレメンス八世は激しく糾弾し、1594年に裁判にかけられることになります。当時の教会裁判ではソドミー(男色)は重罪。フランチェスコは多額の保釈金を払って、再婚した妻ルクレチアと娘ベアトリーチェを引き取って、ローマ教会の影響が及ばないナポリ王国のペトレッラ城に逃げていきました。ペトレッラ城はフランチェスコの友人マルツィオ・コロンナが所有しており、城代としてオリンピオ・カルヴェッティが管理していました。

この時ベアトリーチェは17歳。大変美しい少女に成長していました。

父フランチェスコによる性的虐待

フランチェスコはこの僻地の城に妻や娘を閉じ込め、ローマから帰ってくると暴力をふるうのが日課でした。癇癪を起すと誰もそれを止めることができない。暴力に耐えかねたベアトリーチェは次第に城代オリンピオと親しくなり、城から逃げ出す相談をするようになっていました。

しかしフランチェスコの暴力は次第に増していき、とうとう性的虐待を含むようになっていきました。ベアトリーチェはこの地獄から抜け出すためには父親を殺すしかないと考えるようになり、オリンピオや兄のジャーコモも加わって殺害計画を練り始めました。

1598年9月、寝ているフランチェスコを襲い、家族全員でハンマーで頭部を殴り、オリンピオと部下のマルツィオ・カタラーノが窓から突き落として殺害をしました。

ベアトリーチェらは父が転落死したと偽りローマに戻ってきました。しかし父の遺産を巡って兄ジャーコモ、妹たち、それにオリンピオまで加わって泥沼の争いを繰り広げてしまいます。兄弟たちの間をうろつくオリンピオを煙たがったジャーコモは、彼を殺害してしまう。

一方で殺害に加担したカタラーノが警察にフランチェスコ殺害を自白したことで事件が明るみに出ます。兄ジャーコモ、ベアトリーチェが逮捕し、尋問され自白させられました。オリンピオの遺体も発見されました。

全員死刑

当時も「父親殺し」は極刑に値する重罪。

ただし皆、ベアトリーチェや妻ルクレティアらの証言、そして過去の様々な乱行ぶりから、フランチェスコの極悪非道ぶりは認識していました。そのため、当時の人もベアトリーチェも父親殺しの罪は免れ得ないと思いつつ、殺害に至る経緯から、何らか情状酌量の余地はあるだろうと思っていたようです。

しかし、教皇クレメンス八世はこの事件の「極刑」を強硬に主張。その態度に人々は驚き震え上がったたと言います。クレメンス八世はキリスト教会周辺の道徳矯正に取り組んでおり、いかなる理由でも父親殺しは許されない、という立場だったのです。

この事件の裁判の弁護士を務めたプロスペロ・ファリナッチは「父親の暴行、強姦を受けた娘が、自分を守るために殺したことはやむを得ないことだった」と主張しました。しかしこの弁護も空しく、教皇が主張した通り極刑の判決が下りました。

1599年9月、兄ジャーコモ、妹ベアトリーチェ、義母ルクレティアは処刑されました。

チェンチ家は廃家され、その莫大な遺産はすべて教皇クレメンス八世とその家族のものとなりました。

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