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南シナ海を荒らしたアジアの海賊たち

かつて海賊のメッカと言えばカリブ海でした。

新大陸から金銀財宝を積んでスペインに戻る船を狙う海賊が跋扈し、海賊黄金時代を築き上げました。

最近だとソマリア沖、マラッカ海峡が有名です。石油タンカーや天然資源を積んだコンテナが狙われ、そのまま売っぱらわれることもあったし、身代金を要求されるケースもありました。ただしこの地域も国際的な警備の強化で出没数は激減しています。

さて、南シナ海は中国本土〜台湾〜フイリピン〜ベトナムを結び伝統的に海賊の一大出没地でした。今回は南シナ海を荒らした海賊をピックアップします。

1. 林鳳(りんぽう)

Imae from ALTHISTORYWIKI

林鳳(りんぽう)は1570年代に南シナ海を席巻した大海賊団の首領。

10代の頃にTia-La Ongという名の海賊に入りメキメキ頭角を表し、親分の死後に海賊団を引き継ぎ首領として君臨しました。当時はフィリピン経由でメキシコ産の銀を輸入するビジネスが活況しており、林鳳はフィリピンを征服してスペイン人を追い出し、自分たちで銀貿易を独占しようという野望の実現に乗り出したのです。

1574年11月、林鳳海賊団は74隻の船に2,000人の野郎どもを乗せてマニラに侵攻を開始。 一説によるとこの数はもっと多く、船は200隻、乗組員は10,000人にもなったというそうです。

最初は海賊600名によりスペイン人居留地に夜襲をかけ、リーダーのマルティン・デ・ゴイティは耳と鼻を削がれ虐殺され、他にも数名のスペイン人が殺されました。

3日後にスペイン艦隊が到着したことで林鳳海賊団はマニラより追い払われ、地方の居留地を襲撃しては居留民を殺害して回ります。

対応に苦慮したマニラ政庁は、明朝と連携し林鳳海賊団の拿捕を計画。1575年8月にあと一歩のところまで追い詰めるものの逃亡を許してしまいます。

取締りが強化されたことで林鳳海賊団はフィリピンから撤退。その後の行方は詳しくは分かっていません。

 

2.白濱顕貴(しらはま けんき)

16世紀後半の秀吉の時代、白濱顕貴(しらはまけんき)という日本人商人が、5 隻の商船を従えて阮朝広南国クアヴィエト(Cua Viet)港を訪れました。グエン朝国史官によると、当時のベトナム人は彼のことを西洋人と勘違いしていたようです。

武装商人である白濱海賊団は、ベトナム南部海岸を右往左往しては村を略奪して周りますが、地方領主グエン・ホアンの軍に2隻の船が破壊されようやく撤退しました。

その16年後、白濱顕貴は再び阮朝広南国に現れるのですが、この時彼は徳川幕府が発行する公式な貿易船の印を保有していました。ところが、かつて白濱の乱暴狼藉を覚えていた地元の人々は、よってたかって白濱を攻撃して船をぶっ潰してしまったのです。

正式な商人だったのに勘違いから船を潰してしまい、狼狽した国王・阮潢は、徳川幕府に謝罪文を持たせた使者を送りました。これが初めての日本とベトナムの公式な外交関係の始まりとなりました。

 
3. ライ・チョイ・サン

1956年、ロシア出身の冒険家アレコ・リリウスが著書 "I Sailed with Chinese Pirates"を出版し、ベストセラーになったのですが、その中に「南シナ海のロビンフッド」と描写されたマカオの女海賊のことが書かれています。

彼女の名はライ・チョイ・サン(探したんですが、中国語表記は分からずです)。

海賊団は12隻のジャンク船で構成され、いずれの船も旧式の大砲を備えていましたが、中には2門の近代式の大砲もあったそうです。

1920年〜30年代に南シナ海で活動した海賊で、父親から海賊団を譲り受け、政府と契約し地元の漁師団をほかの海賊どもの搾取から保護する任務にあたっていました。しかしそれだけではなく、輸送船を襲っては品物を強奪して横流ししたり、人質をとって身代金を獲得し、奪ったカネは貧しい漁民たちに分け与えていたため、地元の人々から義賊として大変慕われたそうです。

アレコ・リリウス自身が「彼女の話はどこまで本当か定かではない」と書いており、後に歴史家から記述に怪しげな点がいくつかあることが指摘されています。

 

4. 鄭夫人

1805年頃、アヘンを取り扱う海賊の首領で鄭乙(チェン・イー)という男が現れ、複数の複数の海賊団を糾合し強力な海賊団を組織しました。

保有する船は300隻、戦闘員は2万〜4万という大規模なものです。

ところが1807年11月、鄭乙はベトナムで急死。戦死したとも、暴風に飛ばされたとも言われています。この大海賊団の頭領を引き継いだのが、鄭乙の妻・鄭夫人でした。

夫の死後、海賊の頭領となった鄭夫人は夫以上の敏腕っぷりを発揮し、海賊団をますます精強に作り上げていきました。鄭夫人の組織・経営改革により視野が開けて極めて合理的に動くようになった海賊団は、清朝の沿岸警備隊をことごとく粉砕。清朝にはまったく手に負えない存在となっていました。

海賊団はアメリカやイギリスの商船も無差別に襲ったため、イギリス人からは「南シナ海の恐怖」と恐れられました。

清朝は何度も討伐隊を組織しますが、その度に負けて合計で63隻もの船が沈められ、ポルトガルやイギリスですら彼らを捕獲できなかったと言います。

1809年8月に海賊がシャムの朝貢船の入港を封鎖するに及んで、とうとう清朝政府は海賊の撲滅を決意。イギリスとポルトガルから最新鋭艦を借り、海賊連合に乾坤一擲の攻撃を仕掛けました。

この攻撃でも海賊たちは生き延びたもののダメージは大きく、とうとう鄭夫人は未武装のまま、17名の女性と子どもを連れて広東の行政館に出頭し許しを乞いました。

鄭夫人も恩赦を与えられ、故郷の広東に戻りギャンブル場をオープンし、1844年に69歳で死亡しました。

 

5. 蔡牽(さい けん)

蔡牽(さいけん)は1761年、現在の福建省の貧農の生まれ。
17歳の時に飢饉が起こると田畑を棄てて海賊となり、船の荷物を強奪したり、関所を勝手に設けて税金を取り立てたり、政府海軍の武器を強奪したりしました。

当時、南シナ海には蔡牽と同じような中小の海賊がうようよしており、清国政府の監視も厳しくなったため海賊たちは徒党を組み、その頭目に蔡牽を選出しました。

巨大化した蔡牽海賊団は、台湾海峡の制海権を得ようと清国政府の艦隊とたびたび衝突。一進一退の攻防を繰り広げました。

1805年に自らを「鎮海王」と名乗り、台湾にも拠点を確保しようと、現在の高雄市にある台湾府城を包囲しました(結局落ちなかった)。

1807年に浙江水師提督・李長庚(りちょうこう)と、福建水師提督・張見陞は協力し蔡牽海賊団を攻撃するも、激しい戦闘の結果、李長庚が戦死。

親愛なる親分を殺され復讐に燃える李長庚の部下、王得禄と邱良功は、1809年にそれぞれ福建水師提督、浙江水師提督に任じられ、協力して蔡牽を攻撃しました。

この戦いで散々に敗れた蔡牽は、もはやこれまでと妻子や部下250名と共に自決しました。

 

6. 十五仔(シャプ・ウグ・ツァイ)

1842年、アヘン戦争の結果香港はイギリスに割譲され、この頃から南シナ海を中国人の密貿易者が多数出現し、アヘンを中国本土に密輸するようになりました。

イギリスも清国政府も密貿易者は排除することでは目的が一致していましたが、彼ら密貿易船には巨大な勢力を持つ十五仔(シャプ・ウグ・ツァイ)率いる海賊団が保護にあたっており、下手に手出しはできない状態でした。

十五仔は約70隻の武装船でベトナムから香港近郊までの海上を制圧しており、密貿易船はみかじめ料を十五仔に支払っており、互いに莫大な収益を得ていたのでした。

排除に乗り出しますが十五仔海賊団は抵抗をしたため、イギリス海軍は大安湾に停泊中の艦隊を急襲し100隻以上を拿捕。船舶をすべてオークションにかけてしまいました。

十五仔はそのカネを「全部」「満額」で支払って、商売道具を全て取り戻してしまったそうです。どんだけカネ持ってたんだ…。

英国海軍は結局強硬策に出て、1849年10月に十五仔の旗艦を含む58隻の海賊船を破壊、約1,700人の乗組員を殺害し、十五仔海賊団は壊滅しました。

十五仔はその手腕を買われて清国政府に雇われ、海軍の役人になりました。

 
まとめ

中国が政治的に不安定な時や、政府の経済方針と民衆の需要に大きな政策的乖離が生じた場合、 グレーラインないし公然と政府に反する形で利益追求する者が生じてきます。

現在南シナ海は南沙諸島問題でシーレーンが危ないとされていますが、もし中国共産党が力を失って求心力を失った場合、このような海賊が南シナ海に多数出現し、現在よりもよっぽど危険になってしまうと思います。

 

参考サイト

"歴史の流れに沿った日越関係に関する資料" チュオン・トゥー

"10 Brave And Bloodthirsty Pirates Of The Pacific" LISTVERSE

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