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コンゴ近現代史(前編)――ベルギー領コンゴからコンゴ独立まで

コンゴと聞いて何を思い浮かべますか?
ザイールという名称のほうがまだ馴染みがあるかもしれません。それでも内戦が続く危ない国、という程度の印象があるくらいでしょう。

コンゴという名称の付く国は二つあり、旧フランス領の「コンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル)」と、旧ベルギー領の「コンゴ民主共和国(コンゴ・キンシャサ)」です。

今回追っていくのは後者のコンゴ民主共和国のほうですが、この国は2100年には人口が世界第5位になると予想されており(インド、中国、ナイジェリア、アメリカに次ぐ)、21世紀の大国としての経済発展が予想されます。
 未だに紛争の火種は途絶えませんが、コンゴはいくつもの悲劇を乗り越えて経済発展の軌道に乗ろうと苦闘しています。今回はそんなコンゴの歴史をまとめていきます。


1. バコンゴ族のコンゴ王国

 14世紀、バコンゴ族が現在のコンゴの西端からアンゴラの北西部に至る広大な領土からバンツー系の諸国を征服し、コンゴ王国を開きました。
コンゴの王は「マニ=コンゴ」と呼ばれ、王位は基本的には世襲制でしたが、王の子同士での継承争いによって決まっていたようです。有力者は地方の首長に任ぜられ、王に献上する貢祖や、通貨であったタカラ貝の徴収に責任を負いました。コンゴ王国はよく政治的にも組織化され、物資も豊かな文明国でありました。

コンゴ王国に最初に接近したヨーロッパの国はポルトガル。
ディオゴ=カンが1476年にコンゴ王への謁見を許され、以降ポルトガルとコンゴは経済的・文化的・宗教的な結びつきを強めていきました。
初期のころの関係は大変良く、様々な技術者がコンゴに渡って技術を伝授し、コンゴからは留学生がポルトガルで学習するなどし、コンゴ王ヌジンガ=ムベンバはキリスト教の洗礼を受け、ドン=アフォンソ1世と称するほどでした。

しかし、このドン=アフォンソ1世のころからポルトガル商人による奴隷貿易がスタートします。当初は試験的に始まりますが、それが大きな富を生むことが分かると、ポルトガル商人は奴隷貿易目的でコンゴに来訪するようになっていきます。ポルトガル商人はコンゴの商人に重火器を売り、商人は傭兵に地方の村落に攻め込ませて奴隷を確保し、ポルトガル商人に売り渡す。

奴隷狩りにより地方は荒れ混乱していき、事態を憂慮したドン=アフォンソ1世は、ポルトガル王ジョアン3世にたびたび奴隷貿易の中止を求めますが、そのたびに無視されてしまいます。失意の中でドン=アフォンソ1世は死去し、その後奴隷貿易はますます盛んになり、コンゴ王国は衰退の一途をたどることになります。

2. ベルギー王レオポルド2世の私領化

レオポルド2世

19世紀後半になり、それまでよく分かっていなかったアフリカ内陸部の地理が明らかになってくると、ヨーロッパ諸国ではこれらの国々を領有し、積極的に未開発の富を獲得する機運が高まってきました。
ベルギー王レオポルド2世は、隣国オランダが東南アジアや南米などで積極的に植民地獲得に乗り出している様を見て触発され、まだヨーロッパの国々が本格的に触手を伸ばしていないコンゴの領有化を目論むようになります。

1878年にレオポルド2世は、ヘンリー・モートン・スタンリーという男をコンゴに派遣し、コンゴ各地の400以上の首長と「保護条約」を結びました。

驚いたポルトガルはレオポルド2世の行動に抗議しますが、同じく中部アフリカ周辺地域の獲得を目指すフランス・ドイツはレオポルド2世を支持し、またかねてよりポルトガルの奴隷貿易に反対していたアメリカもレオポルド2世支持に周りました。
このレオポルド2世によるコンゴの主権は、1884年に列強がアフリカ分割について協議するベルリン会議で正式に承認されました。

レオポルド2世はこの地を「コンゴ自由国」としますが、自由とは名ばかりで事実上レオポルド2世の私有地でした。

3. 暴虐と収奪の国・コンゴ自由国

 コンゴ自由国政府は早速、コンゴの土地の経済開発に乗り出します。
まずは土地の確保ですが、コンゴの人々は土地を所有するという考えをそもそも持っていなかったため、政府は全ての土地は「無主地」と決め、これらの土地をいくつかの特許会社に分配してしまいました。

そうした上で、コンゴ自由国政府は上コンゴと下コンゴを貫く鉄道の建設に着手します。全長350キロにもなる鉄道は巨大な労働力を必要とし、コンゴ人だけでなくアフリカ各地から労働者が動員されました。この工事は過酷を極め、最初の2年間で動員された7000人の労働者のうち、3500人が死亡または逃亡、1500人が負傷などで送還、残ったのはわずか2000人だそうです。

労働者の反抗はレオポルド2世が組織した公安軍によって厳しく弾圧されました。公安軍はヨーロッパ人の将校・下士官と、現地の兵士からなる部隊で、コンゴ自由国の実質的な軍隊・警察として機能しました。公安軍は徹底的な残虐さでコンゴの人々を震え上がらせました。

コンゴ公安軍

レオポルド2世は、さらにコンゴ南部にある鉱物資源が豊かなカタンガ州の併合も目論みました。

カタンガ州
Work by Uwe Dedering

当時のカタンガは南からイギリス南アフリカ会社が進出を目論んでおり、レオポルド2世はカタンガ会社に特許状を与えて遠征隊を派遣させ、カタンガの首長と保護条約を結び、コンゴ自由国の支配を確立させました。
この時にコンゴに組み込まれたカタンガは、後に勃発するコンゴ動乱の火種になります。 

コンゴ自由国の産物で多額の利益を上げたのは「ゴム」と「象牙」でした。
政府は住民を強制的にゴムと象牙の採集へと駆り出され、それぞれの地区にノルマが課せられ、達成できなかったら容赦なく公安軍によって手を切り落とされたと言われています。

手を切り落とされるコンゴ人を横目に金儲けをするレオポルド2世

ノルマ未達成の場合の罰は厳しく、住民だけでなく、集荷を担当する請負人もその責任を負い、鞭打ちの刑といった厳しい罰則を課せられました。

さらに政府はゴムや象牙の拠出のみならず、政府の役人や行政官が贅沢な暮らしをするための食料や物品の拠出も求められました。それに加えて、4日に1度は「公的な仕事」に駆り出され、公的施設の建設やインフラのメンテナンス、果ては行政官の住居の掃除などに駆り出されました。
コンゴ統治の旨みを知ったレオポルド2世は、さらなる利益を求めてレオポルド湖からルケニア川流域の地域(ベルギー本土の領土の約10倍)を「王室直轄領」とし、1905年までの9年間の間に個人的に7100万フランも蓄財したそうです。

コンゴ人を締め上げるレオポルド2世を描いた風刺画

4. ベルギー領コンゴへの転換

 信じがたいほどの暴虐が行われていることを知った欧米の世論は激しく反発しました。
1903年にイギリス政府はコンゴ駐在のイギリス領事ロジャー・ケイスメントに命じて内陸コンゴの調査報告書を作らせました。この報告書はコンゴ自由政府の非人道的な行為に対する告発が書き連なっており、イギリス政府はこれをベルギー政府ならびにベルリン会議加盟国に送付しました。

その後、フランスやドイツ、アメリカといった列強もコンゴ問題のベルギーとレオポルド2世の対応を激しく非難し、ベルギー国内でも政府と王室批判が上がるようになっていきました。
ここに至ってはレオポルド2世も重い腰を上げざるを得ず、1905年に調査委員会を立ち上げ、上がってきた報告書を元にしてコンゴ人の土地所有認可やゴムの強制集荷の禁止といった改革を実施することを定めましたが、イギリス政府・アメリカ政府、さらにはベルギー政府ですら、この改革では不十分であると通告。この事態を収拾するには、ベルギー政府によるコンゴの直接統治しかない、としました。
これにはレオポルド2世は反発し強く抵抗しますが、1908年11月についに譲歩し、コンゴ自由政府をベルギー政府の管轄に移管することになります。
コンゴ自由国は消滅し、ベルギー領コンゴが生まれることになりました。

5. ベルギー統治とナショナリズムの発生

レオポルド2世からコンゴの統治を移管されたベルギー政府は、それまでのダーティーなイメージを払拭すべくコンゴ人の商業活動の認可やゴム・象牙の強制集荷の廃止といった改革に着手しました。
しかし第一次世界大戦が勃発し、ベルギー本国が戦禍に見舞われると戦時統制色の強い政策が実施され、コンゴでも開発主義を前面に押し出した「利益優先」策が採られました。大企業や特許会社が最大限コンゴで利益を上げられるような制度が据え置かれることになります。
多数のベルギー人の技術者や家族がコンゴに移住し、彼らの居住用にエリザベートヴィル(現ルブンバジ)や、レオポルドヴィル(現キンシャサ)といった都市が建設されました。

さらには行政整備に必要な人材を育成するために大学が建設され、ブリュッセルの大学と併せて植民地統治に必要な人材の育成が促進されました。

教育の面では初等教育を中心に大幅な発展がみられました。
ベルギー政府は教会の経営する学校に補助金を与える政策を打ち出し、これによりコンゴ各地で初等教育のための学校が開かれ、当時のアフリカの基準から見ても進んだ教育水準のものとなりました。ただしこれは初頭・中等教育に限ってのことで、高等教育は度外視され、1960年代の独立後に大学を卒業した者は全国民のうちわずか2名という低水準でした。

 世界大戦期にコンゴ人のナショナリズムに大きな影響を与えた人物が、シモン・キンバングーです。

シモン・キンバングー

彼は一介の大工でしたが、ある時に神の啓示を受け、地元ヌサンバで死者を甦らせたり、人々の病を治すなどの奇跡を行い始めたと言われています。
キンバングーは自らを予言者であると宣言し、人々はキンバングーの説教を聞こうと続々と彼の元に集まり始めました。
キンバングーはヌサンバの村を「イェルサレム」と変え、十二使徒を任命。自らをキリストと見立てた組織の設立に乗り出しました。彼の興した教えは「キンバンギズム」と呼ばれ、キンバングーの教えによってコンゴ人は救済され、ベルギー人は コンゴから去ると予言されました。

人々があまりにもキンバングーの教えに熱狂したため、既存の教会は信者を取られてしまい、また労働者がキンバングーの元に大挙して参詣して工場が操業できなくなったりして、コンゴ経済の生産性が下落するほどでした。

そこでベルギー植民地当局は1921年6月にキンバングーの逮捕に踏切りますが、キンバングーは軍隊が少し目を離した隙に逃亡。人々はキンバングーが再び奇跡を起こしたと信じて、彼の求心力はさらに高まっていくのでした。
キンバングーは再逮捕され、1951年に獄中で死亡します。
しかし、キンバングーが始めた運動「キンバンギズム」は現在のコンゴでも活動を行っており、同国で最大級の独立教会になっているそうです。

この時期、仏領コンゴのアンドレ・マツワを信奉するマツワニズムなど、大衆レベルでの抵抗運動・民族主義運動が勃興していきました。

6. 第二次世界大戦でのベルギー領コンゴ

第二次世界大戦が始まると、本国ベルギーは早々にナチス・ドイツによって占領されてしまいました。しかし、ベルギー領コンゴは本国の降伏後も抵抗運動を続けていくことになります。
コンゴ植民地政府はコンゴ公安軍を強化し、エチオピアに侵攻したイタリア軍を攻撃。1941年5月にオーギュスト・ジリアールト率いる8,000の部隊がイタリア軍を退却させました。

またコンゴは連合国軍への資源供給に重要な役割を果たしました。オランダ領東インドやイギリス領マレーが日本に占領されたことによって、コンゴは連合国軍のゴムの重要な供給元となりました。また、核兵器を作る上で重要なウラニウムもコンゴで産出されたものでした。その他、木材、銅、綿花、パーム油、ダイヤモンドなど軍用の需要が急増。コンゴは急速に経済発展していきました。

戦後もコンゴは高い経済成長を続け、ベルギー本国の戦災復興にも大きな貢献を果たしました。ベルギー政府はさらなる成長を見込んで10億ドル以上の資金をコンゴに投資し、鉄道・道路・発電所といったインフラや、病院・学校・政府施設などを次々に建設していきました。
これに伴いコンゴの輸出総額は1953年には4億ドルを超え、国民総生産10億ドルにも達しました
経済成長に伴い急激な都市化が進み、多くのコンゴ人が地方から都市に移り住むようなり、学校が普及し高いレベルの教育を受ける人が増えたことで近代的な考えや思想を持つコンゴ人が増え、そのような人たちは1950年代から急速に広がる「アフリカの独立」の大きな潮流を敏感に感じ取るのでした。

アフリカ各地で植民地独立の機運が高まり、イギリスやフランスなどは近い将来の独立や自治の検討や準備を始めていましたが、ベルギーはコンゴを手放すつもりは毛頭なかったようです。
1955年にアントワーヌ・ヴァン=ビルセンという教授が、「30年後にコンゴは独立を果たすべきだ」とする論説を発表し、今の我々の感覚からすると30年なんて遅すぎですが、当時はこの論説ですら「理想主義に過ぎる」とすら言われました

ところが、コンゴ人の間では急速に独立への意識が高まっていきます。
アバコ党(バコンゴ族同盟)党首のジョセフ・カサヴブは、「30年など待てない」として、政治的権利、集会の自由、思想の自由、出版の自由を直ちに認めることを主張しました。
この頃からアバコ党のカサヴブはバコンゴ族の間で急速に支持を広げていきます。

アバコ党のカサヴブ

一方、1958年10月に創設されたコンゴ国民運動(MNC)の党首パトリス・ルムンバは、コンゴの早期の独立を訴えて急速に支持を広げていき、翌年には「単一国家コンゴ」独立運動のリーダー的存在になっていました。

コンゴ国民運動(MNC)党首パトリス・ルムンバ

もう1つの動きとして、1958年にバルンダ族を中心とする東部諸部族連合がコナカ党を設立。党首モイーズ・チョンベは東部のカタンガ州諸部族の連合を率い、コンゴを独立した連邦国家にすることを目指しました。

コナカ党首モイーズ・チョンベ

 そのような動きに対し、ベルギー当局は主要都市の議会に一部選挙を取り入れるなどの妥協策を採りますが、基本的には独立は決して認めない立場でした。

7. コンゴ独立、動乱の始まり

コンゴ動乱

 1958年、近隣の中部アフリカ諸国が次々に独立を達成していき、大いに刺激されたコンゴ国民の中では独立の機運が大いに高まっていました。
 アバコ党のカサブヴはバコンゴ族の居住地域の独立を訴え、コナカ党のチョンベはカタンガ州の自治権のある形での独立を訴えました。

一方でコンゴ国民運動(MNC)のルムンバは、バラバラの部族を強力な中央集権体制で統合すべく、大衆運動の組織化に乗り出していきました。
1959年1月、アバコ党大会の開催を植民地政府が禁止したことに端を発した暴動がきっかけとなり、ベルギー政府はとうとう方針を転換しコンゴ独立の検討をスタート。
同月にアバコ党、コナカ党、MNCといったコンゴの党の代表を集めて会議を開き、なんとわずか5か月後に独立させることが決定されました
わずか5カ月の間に新生コンゴは独立後の国の形を決めなければならず、相当に無理があるスケジュール設定でした。

特に厄介な問題が民族問題で、主要な部族だけでも、バコンゴ族、バルンダ族、バルバ族、バモンゴ族などがいて、少数民族ともなれば数えきれないし、それぞれが独自に自分たちの主張をしていたので、わずか5カ月でまとまるわけがありません。

とはいえ、独立をすることになったので、1960年5月に総選挙が行われ、投票の結果ルムンバ率いるMNCが第一党となりました。しかし多数をとることができなかったので、アバコ党やコナカ党、他少数の党との連立政権が組まれることになります。
そして1960年6月30日、コンゴ共和国が発足することになりました。

 初代首相となったルムンバは、形式的には中央集権体制を敷くも、実質的に地方の権限を大幅に認めた体制を構築し、連立を組む他の部族の党と妥協を図りました。
そうした上で、国の統合のために強烈な民族主義・反ベルギーの態度を採りました。ベルギー政府はこうしたルムンバの対応に警戒感を抱くようになります。

国民の反ベルギー感情は根強く、コンゴ人兵士のベルギー人将校への反乱事件をきっかけに全国に暴動が拡大。ベルギー人と見るや略奪・暴行を加える事件が相次ぎました。
事態を重く見たベルギー政府は、ベルギー人の保護を理由として軍隊を出兵させ、カタンガ州の首都エリザベートヴィル、カサイ州の首都ルルアブールに軍隊を送り込み、ベルギー人を解放しました。
このようなベルギー軍の行動に対してコンゴ軍が反発。各地でコンゴ軍とベルギー軍の衝突が始まります。

そんな中、7月11日に突如としてコナカ党のチョンベがカタンガ州の独立とカタンガ共和国の独立を宣言してしまいました。

8. カタンガの分離独立闘争

 カタンガ州は天然資源が豊富な地域でコンゴの国民総生産への貢献も高く、チョンベはカタンガ州の豊富な収入を自分たちで独占することを目論みました
そんなカタンガを、ベルギーを始めとしたヨーロッパ諸国は密かに支援していました。反ベルギーの姿勢を貫くルムンバへの対決姿勢を強めたというのもありますが、カタンガ州に自分たちの資本が入った鉱山が多数あったため、利権絡みでチョンベを支持したわけです。

ルムンバとカサブヴはベルギー軍へ軍の撤兵を要求しますが、ベルギーは「法と秩序が回復されない限り撤兵できない」としてさらなる軍事介入を続けました。
コンゴ政府は国連軍に介入を要請。マリ、スーダン、アイルランドからなる国連軍がコンゴに進駐し、ようやくベルギー軍は9月初旬に撤兵しました。

しかし、相変わらずカタンガは独立をした状態が続き、加えて8月にはジルバ族の住むカサイ州南部が「南カサイ鉱山国」として独立を宣言

これ以上の分離は断固として認めないという姿勢を見せるため、首相ルムンバは国連事務総長ダグ・ハマーショルドに国連軍のカタンガ攻撃を要請。そしてコンゴ軍のカタンガ攻撃の検討を開始しました。

これを危険視した大統領カサブヴはルムンバを解任し、後継にジョセフ・イレオを任命する発表を行いました。一方でルムンバもカサブヴを解任する声明を発表。コンゴ政府内での決定的な対立が生じ、中央政府が混乱状態に陥っていきます。

9. カタンガ共和国の崩壊

 9月14日、陸軍参謀長ジョゼフ・モブツはクーデターを行い議会を停止させ、軍主導の暫定委員会を発足させました。

カサヴブは暫定委員会に協力しますが、ルムンバは反発し次第に孤立していき、本拠地のスタンレーヴィルに逃亡しようとしたところを軍によって逮捕されました。これに対し、ルムンバを支持する勢力はスタンレーヴィルで新政府の樹立を宣言。

ここにおいて、コンゴ共和国はレオポルドヴィルとスタンレーヴィルの2つの政府の対立状況が発生しました。

スタンレーヴィル政権は軍をカタンガ州北部に侵入させルアバラ州として独立宣言するなど混迷を極めていきました。ここにおいて、レオポルドヴィル政権は捕えたルムンバをカタンガ州のチョンベの元に移す決定をします。

レオポルドヴィル政権とカタンガは対立していましたが、当面の混乱を抑えるにはまずはルムンバのスタンレーヴィル政権を屠ってから話し合いで解決しようという目論見でした。

ところが2月13日、カタンガ共和国は「ルムンバが殺害された」と発表
普通に考えたらチョンベの指示の元殺害されたと考えるのが筋ですが、公式発表ではカタンガからスタンレーヴィルへの脱走中に住民に殺害されたとされました。
この発表に国際世論はコンゴ政府、カタンガの両方に対して非難が集まり、各国政府のみならず民間レベルでも抗議デモが発生し、中にはスタンレーヴィル政権を承認する国までも現れ始めました。

コンゴ問題の国際的な懸念が高まる中、国連安保理事会においてコンゴ問題に関する決議を採択。コンゴの統一状態の回復、治安の回復、議会制の復活、軍隊の再編などが盛り込まれました。

カタンガに利権がある西側諸国も、カタンガの分離独立を潰さなければコンゴの混乱は収まらないと見たことに加え、放って置いたらカタンガがソ連の影響によって共産化してしまう、という恐れもあったのでした。

このような国連の動きに対し、レオポルドヴィル政権もカタンガ政権も「自らの問題はコンゴ自身で解決する」として外部の介入を拒否し、安保理決議の無効を宣言。
カサブヴは各党を集めて特別国会を開き、シリル・アドウラを首班とする挙国一致内閣を樹立させました。

アドウラは一刻も早いコンゴの統一の回復を訴え、国連もこれを支持しますが、カタンガのチョンベはこれを認めず、「全人民的抵抗」を訴え、カタンガ憲兵隊と国連軍の衝突も発生するまで事態は緊張しました。

介入しようとした国連事務総長ハマーショルドはカタンガ行の飛行機で謎の墜落事故で死亡し、ますます国際社会とカタンガの関係は冷え込んでいきます。

12月15日、とうとう国連軍はカタンガの首都エリザベートヴィルに侵攻しカタンガ憲兵隊を圧倒。チョンベはアドウラ政府に「カタンガの分離の放棄」を認めたキトナ協定を結びました。

チョンベはその後もあの手この手でカタンガの維持を目論みますが、国連総長ウ・タントはチョンベに重大な警告を発した上で、制裁措置を実施。国連軍は再度首都エリザベートヴィルを制圧し、チョンベはとうとうカタンガの全域を国連軍に委ね、カタンガの独立消滅を宣言。1963年1月18日に、正式にカタンガは消滅しました。

つなぎ

政治家同士の反目、部族同士の対立、諸外国の利権、イデオロギー対立などなど、色々な事情が絡み合った複雑極まりない状況です。

チョンベもルムンバもカサブヴも、別に混乱状態を望んでいるわけではなく、何とか必死に和平をしようとしているのは分かるのですが、なにせ利害が麻のように絡まっており、一筋縄ではいかなかったに違いありません。下手を打つと、自分のみならず、一族郎党、部族もろとも抹殺される恐れがあるわけなので。

次回は、クーデターによって混乱の収拾に当たった軍人モブツが、全権を掌握し独裁体制を築いていく様を見ていきます。

参考文献

 アフリカ現代史(3)中部アフリカ(世界現代史15) 小田英郎 山川出版社

参考サイト

Belgian Congo in World War II - Wikipedia

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