アメリカのLGBTを進歩させた女性偉人列伝
アメリカの女性史・LGBT史にとって重要な人物
アメリカでは長年、同性愛は「自然法に反する」として同性愛者は取締りの対象でした。
同性愛カルチャーは地下に潜って活動していたものの、連邦では1970年代まで同性愛者を逮捕できる法律が存在し、女性は同性愛だと分かると親権を奪われるという厳しい状況でした。
男性のLGBTだと映画「ミルク」で有名なハーヴェイ・ミルクが有名ですが、女性のLGBTを進歩させた人物をピックアップしていきます。
1. シャーロット・クッシュマン (1816-1876)
シャーロット・クシュマンは18世紀に活躍したアメリカのステージ女優。
アメリカのみならずイギリスの舞台でも活躍した稀有な人物です。
クッシュマンは非常に男性的で、ハムレットやウォルシー枢機卿などの男性役を演じましたが、中でも「ロミオとジュリエット」のロミオ役は大変なハマり役で、これで彼女はトムボーイ(tomboy)役者として名声を得ました。
クッシュマンは女性を愛し、その生涯で数多くの女性と一緒に暮らし、イギリスの舞台女優の一線から退いた後はローマに移り住み、そこでアパートで何人かの女性と暮らし、最期はエマ・ステビンスという女性をパートナーとしていました。彼女の恋人関係はあまり公にならず、彼女自身もそのことについて言及することがほとんどありませんでした。
ビクトリア朝の時代のイギリスでは、「レズビアン」という概念は存在せず、女性同士が仲良くするのはむしろ「貞潔で立派」な友情であると考えました。そもそも女性同士の関係の存在自体が社会に認識されておらず、女性同士で暮らすことは修道院の尼僧のような暮らしの延長程度に思われたため、クッシュマンはパートナーとの生活を維持できていました。
LGBTについての社会的関心が高まるとクッシュマンは再評価され、男らしさと女らしさとは何か、同性愛者のアイデンティティは先天的なものか後から作られるのか、など、重要な議論を起こしました。
2. メアリー・エドワーズ・ウォーカー(1832-1919)
メアリー・エドワーズ・ウォーカーは南北戦争に従軍した唯一の女性医師で、最前線の野戦病院での献身的な活動を評価されアメリカ政府から名誉勲章を授けられた人物です。
彼女は生涯に渡って襟袖、蝶ネクタイ、シルクハットをビシッと決めた男装で過ごしました。そのために逮捕されたことも何度かあります。夫で外科医のアルバート・ミラーとは彼女が夫婦別姓を主張したがために疎遠になり離婚してしまいました。相当に気が強そうな女性です。
ウォーカーは、1866年に国民服装改革協会の会長に選出され、検察官で女性改革運動の賛同者であるベルバ・アン・ロックウッドと協業しました。ロックウッドは1884年の大統領選挙で、女性参政権を訴えて平等党から立候補した人物です。しかしウォーカーは合衆国憲法がすでに女性に票を投じていたため女性参政権を認める法律は無意味であるという立場でした。
1917年、議会が名誉勲章を授ける基準を「前線の戦闘で活躍した人物のみ」に絞る決定を下し、ウォーカーの勲章も取り上げられようとしましたが、ウォーカーは常に勲章を身に着けて話さず、引き渡しを死ぬまで拒否しました。
3. ジェーン・アダムズ (1860-1935)
ジェーン・アダムスはシカゴのスラム街にハルハウスと呼ばれる貧困者のための福祉センターを開き、衣食住のみならず学問や文化活動などを提供しました。加えて、女性の権利の活動や平和活動も積極的に行い、それらの活動が評価され1931年にノーベル平和賞を受賞しています。ソーシャルワーカーの先駆け的存在と言われています。
ジェーンは今で言うところのレズビアンで、ハルハウスの女性何人かと恋人関係にありました。最初の恋人はエレン・スターという女性で、ジェーンとエレンはハルハウスの共同設立者です。二人がロックフォード女子神学校の学生だったときに会って意気投合し、1889年に一緒にトインビーホールを訪れ、シカゴの家を購入してプロジェクトを開始しました。
2番目の恋人はメアリー・ロゼット・スミス。彼女は実家は資産家であったため、経済的にハルハウスを支援しました。ジェーンはメアリーを「私の永遠の愛」、「最愛の人」、「最愛の人」と呼んでいたようで、1934年にメアリーが肺炎で亡くなるまで一緒にいました。出張などで離れている時は、少なくとも1日に1回、時には2回、お互いに手紙を書きました。ジェーンはメアリーに、「あなたがいなくて死ぬほど寂しい」と情熱的に書き記しています。
4. アリス・ハミルトン(1869-1970)
アリス・ハミルトンが生まれたハミルトン家は、インディアナ州フォートウェインの創設一家で地元の名士。一家のメンバーはいずれも学者や医師で、アリスも医師になることを目指してミシガン大学で勉強しました。ドイツ留学後にジョンズ・ホプキンス医科大学の助教となり、その後ノースウェスタン大学の教授となりました。シカゴではハルハウスに住み貧困者のための援助に日常から従事しました。
1908年からはイリノイ州知事によりイリノイ州職業病委員会の委員に任命され、1911年から1920年まで白鉛と酸化鉛の製造に関する研究を行い、より安全な労働条件のための推奨条件の策定を行いました。その後もアリスはアニリン染料、一酸化炭素、水銀、テトラエチル鉛、ラジウム、ベンゼン、蓄電池の化学物質など、工業製品の有毒な影響に対して政府や企業への警告や勧告を行う重要な役割を果たしました。
1919年にはハーバード医科大学で教鞭をとった初めての女性となっています。
アリスはカレッジで知り合ったクララ・ランズバーグという女性と生涯に渡る恋人関係にあり、ハルハウスで彼女とルームシェアをして暮らし、その後はクララはハミルトン家に半ば居住しながらアリスを心身ともにサポートしました。アリスはクララについて「クララがいない人生など考えられません、私達は2人で1人であるかのようです」と述べています。
5. レネ・リチャーズ(1934-)
Credit: MANNY MILLAN, Photo from "She's a Transgender Pioneer, But Renée Richards Prefers to Stay Out of the Spotlight" SI.com
レネ・リチャーズは2019年時点で存命の眼科医です。
ユダヤ系の裕福な家庭に生まれ、幼い頃からスポーツが万能で、ニューヨーク・ヤンキースに招待されたほどですが、大学からはテニスに集中して取り組み、イェール大学で学んだ後に眼科医として働きながらテニスを続けました。
リチャーズは子どもの頃からトランスジェンダーで、大学の時から女性の服を着始めました。当時は男性が女性の服を着ることはキチガイ扱いされる行為でした。リチャーズは自分をフランス語で生まれ変わった、という意味のルネと名乗り始め、女性ホルモンの注射を打ち始め、性転換について真剣に検討を始めました。何度かの挫折ののちに、1970年代初頭に性転換手術を受けて女性になりました。
リチャーズは1976年に女性選手としてプレーすることを要望しますが、全米テニス協会(USTA)、女子テニス協会(WTA)、全米オリンピック委員会(USOC)は、すべての女性競技者に遺伝子調査を要望し始めました。リチャーズは公然とこれに反対し、人権法に反するとして全米テニス協会を訴えました。連邦裁判所は1977年8月、リチャーズは既に女性であり「彼女に身体調査にパスするように要求するのは不平等で差別的である」としてリチャーズの訴えを認める判決を下しました。リチャーズは晴れて1977年の全米オープンの女子の部に出場し、ダブルスで決勝まで進出しました。
1981年の現役引退後はニューヨーク市で眼科医として働き、現在はパートナーのアーリーン・ラルズレレと暮らしています。
6. サリー・ライド(1951-2012)
サリー・ライドはNASAの宇宙飛行士で、1983年にスペースシャトル・チャレンジャーに搭乗し、女性で初めて宇宙に行った人物として歴史に名を刻んでいます。
サリーは通っていたスタンフォード大学の大学新聞に掲載されていた、NASAの宇宙飛行士のトレーニングプログラム募集に応募。8,000人以上の応募者の中から35人が候補生として選ばれ、彼女も選ばれました。候補生たちは宇宙環境研究やロボットアームの操作など、あらゆるスペースシャトルの運用を学び、1979年に晴れてNASAの宇宙飛行士になりました。
そして1983年6月にチャレンジャー号で初めて宇宙に行き、スペースシャトルでのミッションを無事にこなして帰還しました。NASAを退職後はスタンフォード大学とカリフォルニア大学サンディエゴ校で非常勤講師を務めたり、メディアへ出演するなどしました。
彼女のプライベートは生前はあまり明かされませんでしたが、2012年の死後にサンディエゴ州立大学のタム・オショーネシー教授がサリーとパートナーであったことを明らかにしました。2人は子どものころからの知り合いで、幼少期にテニスを通じて出会い、生涯に渡って支え合っていました。
7. エレン・デジェネレス (1958-)
Photo by Toglenn
エレン・デジェネレスは2019年現在存命のコメディアン、テレビ司会者、女優。
20代前半のころからスタンダップ・コメディを始めて有名になり、テレビ番組の司会者やオーディション番組の審査員などを務めるセレブリティです。1997年超有名番組である「オプラ・ウィンフリー・ショー」でレズビアンであることをカミングアウトし、一気に人気になりました。
その抜群のトーク力と機転が効くことを買われ、エミー賞やアカデミー賞の授賞式の司会にも抜擢されています。
1997年のカミングアウト後から女性関係は常にオープンで常にマスコミを賑わせており、何人かの女優と交際した後にオーストラリア出身の女優ポーシャ・デ・ロッシと交際を始め、2008年に結婚しています。
まとめ
LGBTはずっとずっと昔からあったものの、自らそうであることをオープンにして多くの賛同が集まるようになったのは、本当にごくごく最近であることが分かります。もちろん今でも否定的な言説や差別的な主張も多く、道半ばではあります。
こう生きるべき、こう生きなくてはいけない、と誰かに強制される社会ではなく、俺・私の生き方を認めてくれ、という声を潰さない社会にしていきたいものです。
参考サイト
"CHARLOTTE CUSHMAN: NOT YOUR AVERAGE ROMEO" History Heroines
"Mary Edwards Walker AMERICAN PHYSICIAN AND REFORMER" Encyclopedia Britannica
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