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寡兵が大軍を打ち破った「超大逆転勝利」

日本史の「超大逆転勝利」と言えば、桶狭間の戦いでしょう。兵の質も量も指揮官の能力も圧倒的に今川勢有利だったのに、それを若き織田信長が完全にひっくり返してしまう。日本の戦国の戦いの中で最もドラマチックな戦いと言えます。

それに勝るとも劣らない「超大逆転勝利」は世界史にもたくさんあります。その中でもとびきりの逆転劇をピックアップしてみました。


1.  ロンゲワラの戦い

1971年、東パキスタン(バングラディシュ)の独立を巡ってインドとパキスタンが争った第三次印パ戦争。メインの戦場はベンガル地方でしたが、開戦の翌日に西のパキスタン本土からもインド領内に向けて攻撃がありました。

パキスタン領内からインド側に向かって火砲による砲撃があり(これにより5匹のラクダが死亡)、インド軍がタール砂漠の中で動けなくなったところ、中国製T-59型戦車とアメリカ製シェルマン戦車45台、歩兵3,000がインド領に侵入しました。

これを迎え撃つインド軍は、クルディップ・シン・チャンドプリ大佐率いるわずか120名の歩兵と1台のジープのみ。まともにかち合ったら壊滅だと考えたチャンドプリ大佐は夜襲をかけます。

闇夜にまぎれて近づき、対戦車兵器で12台の戦車を破壊。当然パキスタン軍から反撃がありますが、インド兵たちは破壊した戦車に隠れながら猛然とパキスタン兵をなぎ倒し、戦車を破壊しまくる。

鬼と化したインド兵の前にパニック状態になるパキスタン兵。
夜が明けてインド空軍の攻撃機2機が到着したところ、一方的な「殺戮の場」と化していたと言います。戦況不利と見て、朝11時にパキスタン軍は領内に撤退しました。

この戦いでパキスタン軍は200名の歩兵と34台の戦車を失いますが、インド軍はわずか2名の死者しか出しませんでした

チャンドプリ大佐はインド国民のヒーローになり、政府からマハ・ヴィル・チャクラ(偉大な戦士)の勲章を賜りました。

2. 第二次ガルベストンの戦い

アメリカ南北戦争中の戦いです。
1863年1月1日、連邦軍(北軍)のジョン・マグルデールは、連合軍(南軍)が占領するテキサス州ガルベストンを攻撃しました。ガルベストンの港は260名の重武装兵によって守られており、周辺の水域も火器を搭載した6艘の砲艦が警備にあたっていました。
一方攻める北軍は、500の歩兵と21の大砲、それに単発銃で武装した兵が乗る2艘の綿花輸送船「ネプチューン」と「バユー・シティー」のみ

夜が明け、北軍の大砲が南軍を砲撃しますが全然効果がない。陸地から歩兵が攻めようとするも、南軍の頑強な抵抗にあってはね返されてしまいます。

そこで、2艘の綿花船が兵を乗せて南軍の砲艦に向かって進撃。まともに当たっては勝ち目はないので、体当たりしての乗っ取り攻撃です。

2艘は砲艦USSハリエット・レーンに突撃しますが、すぐさま蒸気船ネプチューンは集中砲火を浴びて轟沈。しかしそのスキに、バユー・シティーがUSSハリエット・レーンへの体当たりに成功。北軍歩兵が飛び移って、砲艦の乗っ取りに成功
これに動揺したのか、南軍の母艦USSウェストフィールドが浅瀬に座礁してしまいます。

これ以上砲戦が乗っ取られてはたまらん、と南軍のレンショー准将は砲艦の爆破を命令しました。爆薬をつけ、点火!しかしどういうわけか、爆破しない。

どういことだ?とレンショー准将と随行員たちが様子を見に行ったその瞬間、大爆発を起こし船が大破!

レンショー准将たち14人は巻き沿いを喰らって死亡。指揮官の死亡に動揺した艦隊は撤退。海側の防衛を失ったガルベストンの街は、なすすべなく北側の攻撃を受けて陥落したのでした。

3. トルヴァヤルヴァイの戦い

Author: SA-kuvat

1939年11月、ソ連軍がフィンランドに侵入し冬戦争が勃発。大軍の前にフィンランド軍は撤退を余儀なくされますが、ソ連軍は12月にトルヴァヤルヴァイにまで達しました。
攻めるソ連軍第139師団の兵は約2万、45の戦車と150の大砲を保有した文字通りの大軍。迎え撃つフィンランド軍は、コロネル・パーヴォ・タルヴェラ大佐が率いる4,000の歩兵のみ

ただでさえ少ない軍勢をタルヴェラ大佐は3つに分割し、凍った2つの湖を超えて歩兵を北・中央・南と展開して包囲網を作り、「可能な限り打撃を与える」ことを目標としました。
目標が「撤退させる」じゃないのが恐ろしいですね。

朝8時、奇襲攻撃開始。
北軍はすぐさま、脇腹から攻撃を仕掛けようとしていたソ連軍第718連隊と遭遇。圧倒的な火力の前に苦戦し、一時は撤退するも中央軍からの支援増強もあってソ連軍第718連隊の進撃を阻止します。

中央軍はほぼ歩兵の力だけでソ連軍を圧倒。ソ連軍将校が泊まるホテルを包囲し、銃撃戦の末指揮官たちを皆殺しに。南軍も進撃し、重要拠点であるコティサーリ島を占拠。当初描いていた包囲網は完成しなかったものの、連日の奇襲攻撃でソ連軍は第139師団も壊滅し、撤退。一方フィンランド軍は重要な勝利をつかみ取ると同時に、戦車や大砲など貴重な軍事物資を分捕ることに成功しました。
この戦いを皮切りに、フィンランド軍の破竹の快進撃の幕が明けたのでした。

4. ゲート・パの戦い

1864年、イギリス人による土地の収奪に反発するニュージーランド原住民マオリは、族長のレウィ・マニアポトを先頭にイギリス対して挙兵しました。ニュージーランド戦争です。

4月27日、ラウィリ・プヒラケ率いる235名のマオリ戦士が、ドゥンキャン・キャメロン配下の1700名のイギリス兵が籠るゲート・ポの砦を奇襲し占拠しました。

イギリス軍は奪回のため、28日〜29日にかけて大砲で砦に集中砲火を浴びせる。当初はマオリ側の抵抗もありましたが、次第に銃声は止まり砦は沈黙。

キャメロンはマオリは全滅したと思い、兵を率いて悠々と砦の中に入ってきました。

実はマオリ戦士は死んだわけではなく、掘った塹壕の中に隠れており、突如穴から飛び出してリラックスしていたイギリス兵に次々と襲いかかりました。

イギリス兵は120もの死者を出して退却。マオリは重要な砦と共に、イギリス軍が残した大砲を手に入れたのでした。

5. 第二次サビーネ・パスの戦い

アメリカ南北戦争時の戦いです。
1863年9月、連合軍(南軍)のウィリアム・フランクリン将軍はテキサスの玄関口にあたるサビーネ・パスを奪還すべく、4隻の砲艦、18の輸送船、4000の歩兵を率いてサビーネ川の対岸から上陸しようとしました。

これを発見したのが連邦軍(北軍)のリチャード・ドーリングが指揮官のわずか47名の砲兵部隊。彼らは6門の大砲を所有しており、上陸しようと川を進む南軍目がけて大砲をぶっ放しました。

この47名の火砲の射撃能力は相当高かったようで、この砲撃によって南軍の砲艦サチェムとクリフトンが大破し炎上。輸送船も砲撃を受けてダメージを受け、南軍は大混乱に陥る。作戦続行不可能と判断したフランクリン将軍は撤退命令を出し、南軍は退却。

この戦いで、南軍は28名が死亡、75名が負傷、315名が捕虜になりますが、北軍の死亡・負傷はゼロという一方的な戦いでした。

6. ヴィトコフ・ヒルの戦い

宗教改革の先鞭を付けたフスを支持するボヘミア農民勢力は、カトリックを篤く信奉する神聖ローマ帝国の「異端十字軍」の攻撃を受けます。いわゆるフス戦争です。

1420年2月、15万ものカトリック軍がボヘミアの中心地プラハに向けて進軍を開始しました。

フス派の指揮官ヤン・ジシュカ(隻眼のジシュカ)は防衛のために、何度もカトリック勢力と戦ってきた農民歩兵を集めてプラハの防衛に当たらせました。
1420年7月12日、プラハを包囲したカトリック軍は、容易にプラハを落とせると考え、深く戦略を考えずに攻略戦を開始。一方のフス派はプラハの主要な防御砦であった、ヴィトコフ・ヒルに特に経験豊かな農民歩兵1万2000を集結させていました。農民兵が持っているのはよくて槍で、中には鍬のような農具で武装しているものすらいました。

ところが精鋭だけあってめっぽう強く、ヴィトコフ・ヒルはビクともせず、5万〜10万のカトリック騎士の攻撃を何度もはね返しました。

結局カトリック軍はプラハを落とすことができずに撤退。
フス戦争はその後、勢いにのるフス派がカトリック軍を何度も打ち破る、皇帝にとっては悪夢の戦いとなりました。一方、ボヘミア勢力はこの戦争によって民族意識を向上させ、後のチェコ民族を形成していくことになります。

7. チェラーミの戦い

10世紀後半から北欧系バイキングのノルマン人は、安住の地を求めて南イタリアの征服を開始。土着勢力となっていたゲルマン系ロンゴバルト族の貴族と争いながら、徐々に支配地を広げていきました。

一方、シチリア島の住民は多くが正教徒でしたが、9世紀前半に南からアラブ人の攻撃を受け、200年以上もイスラムの支配下にありました。
南イタリアで足下を固めたノルマン人は、1061年から物産豊かなシチリア島の征服事業を開始。1063年にカラブリアのロジャー1世は、130の騎士を率いてシチリア東北部の小さな町チェラミを占領。すぐに、近郊のムスリムの大軍が出動し会戦となりました。

 ムスリム軍は、騎兵3,000に歩兵50,000。
ノルマン騎士130と歩兵150はひとたまりもありません。

伝記によると、この時「戦場に聖ジョージが現れ神の援護を受けノルマン騎士は戦った」とあります。鬼と化して戦ったのでしょう。
この戦いで、130のノルマン騎士はムスリム兵15,000を殺害。

大損害を被ったムスリム軍は、夜になって撤退しました。この奇跡の勝利は、ノルマンのシチリア征服のターニングポイントになったと言われ、ここチェラミを拠点にノルマン人は征服事業を進めて1091年に完全にアラブ人を追い出してしまいました。 

まとめ

運の力もあるんでしょうけど、敵・味方の指揮官の力量、兵員の士気、武器の質量、地形、天候、その他諸々の自然条件、それらが「ここしかない」というタイミングでガチッとはまったときにこのような奇跡の勝利が生まれるのでしょう。そのようなタイミングに見事にハマるのも、「神の力」としかいいようがないほどの偶然で、狙ってできるものじゃ絶対にないはず。

こんな戦いに遭遇してしまったら以降の人生、この戦いのことだけしか頭に残ってないんじゃないかくらいのインパクトがありますよね。

 参考・引用

listverse.com, 10 Amazing Military Victories Against The Odds

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