見出し画像

カレン

白人の「セントラルパークのカレン」が無実のバードウオッチャーである黒人男性を、肌の色だけを理由に警察に通報し有名になったたエイミークーパーさんの記事を読んだ。
後日談だが、結論的にはどうも件の個人男性も過去に問題を起こしており、実際は危険性もあった可能性があったとか、彼女の経験の中で生まれた感情が深層心理に潜んでいたとか、要は彼女自身も含めてどこまで差別を意識していたのかわからない。またメディアや民衆とは真実を容易に認めないなどの記事内容でした。

彼女は今でも社会的に抹消され就職するらできていないようです。

この記事を読んで、彼女はそれほどの人種差別主義者じゃないとか、メディアの偏向問題や、民衆によるバイアスの狂気性とかを訴えたいのか?と思いましたが、こう言った問題をどれだけ繰り返せば、人間は学べるのでしょうかね?うんざりするほどこの手の記事は読み飽きました。

彼女自身もあの時の自分の中に、差別心があったかどうかわからないと述べています。まぁある種のパニック状態であったことは映像を見れば十分に理解できます。

メディアのある種の限界は、昔から指摘されています。メディアは一方方向しか写せないのです。目の前に広がっている前方しか写していません。
それと映像は瞬間を切り取っています。時系列を全部写しておりません。インタビュー記事でも話の前後を説明せず、言葉尻だけを報道し炎上するケースが多発しますが、まぁ意図時に操りながら面白ろおかしく報道するものなんです。注目を得られなければ意味がないですから。勿論、メディア側も留意して幼稚な炎上作戦など止めて欲しいものですが、一方、見る側もいい加減メデイアのこう言った問題点をきちんと認識し、単純な思い込みや感情移入はいい加減止めた方が良いと思います。今回の彼女の後日談?も単純に感情移入するだけでは幼稚すぎます。

彼女だけじゃないですが、多くの加害者被害者たちは報道によって多くの犠牲を払います。そしてそのほとんどは、自分たちの正当性を訴えます。被害者側は勿論非難される筋合いは一切ないのですが。加害者側にも余りに偏った報道により話にオヒレハヒレが付き、今回のエイミーさんのようになってしますケースが多いのです。いつの間にか被害者が加害者として祭り上げられ、真実とは違う方向へ事態は流れるなんて別に珍しい事でもないのです。

全ては一つの懸念点が引き起こしている問題ではないのです。
多くの改善すべき点が、長年置き去りに放置され事が進んでいるので、いつまで経っても同じような問題を起こしては泣いて喚いて騒いでいるのが人間という動物です。

民衆による狂気の魔女狩り!古代から人間は繰り返し今日も継続しています。同調と言う社会秩序を調整する一つの道具を、人間は上手に使いきれていないのです。車は便利で良いものですが、人を轢き殺せます。刃物も料理をしたりするには非常に便利なものですが、人を殺す凶器としても使えます。つまり道具を使うあなた次第で、道具は良いものにもなるし、悪いものにも変化するのです。これをきちんと認知できていない人達が多い事も事実だと思います。

同時に「人間は嘘を吐く動物」と言う点を深く認知している人達も少ないように思います。なので嘘を付くと述べると多くは毛嫌いするだけです。嘘は良くないと言うバイアスがかかっているわけです。しかし一方で「嘘も方便」と都合の良い事も知っています。そして良い面だけを認めて、悪い面は「異常」「間違い」「べきじゃない」と切り捨てようとします。それ自体が認知を弱めている事になります。都合の悪い面を切り捨てたり、否定するのではなく、清濁併せ持った認識に改め、その上でどの様に使いこなすか?そこが大切だと思います。

エイミーさんの後日談が正しいとか、嘘をついているとか、単純に可哀想だとか、そう言った感情論的なに認知だけでは不十分だと思います。

彼女の中に「差別心」はあったのか?
あったと思います。しかし、差別心があるから「差別主義者」だと言う認知は間違っています。差別心と言う不都合の真実を人間は認めるべきです。誰もが好き嫌いがあります。嫌う権利も保有しています。そこを認めずに、差別による悲しい事件は防げません。人間、差別心を持っているから誰もが、嫌いな相手に危害を与えたり、誹謗中傷を繰り返すのか?
そんなことはありません。10人中10人、誰もが差別心は持っていますが、多くの人間はそれをキチンと管理できます。それが大人って言うものです。子供はその管理をできません。だから子供と言うのです。「差別心が悪」なのではなく、差別心を使いこなせない管理能力に問題がある人間に罪があるのです。

人間は動物であり、感情が発生します。その感情の一つである好き嫌いをも、昨今は否定します。嫌いと感じる事に何の罪はありません。嫌いなもんは嫌いなんです。好きなものは好きだしね、、。セクハラ、パワハラだってこの延長線上の問題です。自身の内側に溢れ出てくる感情とは、使い方を間違えると人を殺す凶器になるのです。正義心も度を越せば狂気と化します。なぜ人は殺人を犯すのか?それは愛と言う感情があるからです。愛という感情を使い間違うと、戦争や争いごとを呼び起こし、殺戮を繰り返すのです。

メディアだって限界があるんです。メディアに文句を言うだけじゃなく、利用の仕方を自分自身が工夫しましょう。誰かに文句を言うだけじゃなく、改善するには、どのような利用の仕方に変えれば良いのかを思考すべきです。教師が悪い、学校が悪い、会社が悪い、上司が悪い、政治が悪い、国が悪い、、と文句の声だけが「正当性」と言う武器を手に世の中溢れ出ておりますが、それらを如何に使い熟していけるのか?その使う側の責任と言うものを一人一人が顧みる必要性はあると思います。

誰もが知っている事ですが、科学だって使い方次第、道具だって使い方次第。何でもかんでも、使い方次第で良いものにも悪いものにもなってしまうのです。
利用しているのは人間という動物です。当然、人間の生き方ひとつで、人間と言う動物も、良い動物になったり悪い動物になったりするのです。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?