見出し画像

『3匹のこぶたオオカミ殺人未遂事件』

面白い記事を見た。裁判所の仕事を身近に感じてもらうため、北海道札幌市の札幌地裁で行われたている企画の記事でした。子供達に身近に裁判を感じてもらおうとの取り組みのようです。記事を読んで蘇った記憶は「倫理授業」でした。子供の頃受けた倫理の授業を思いだしました。

2024年は「浦島太郎」が題材で、竜宮城から帰ってきて玉手箱を開けた浦島太郎が煙を吸って亡くなったことから玉手箱を渡した乙姫様が殺人罪で起訴、懲役10年を求刑されたとの事です。
2025年、、
「私はオオカミを殺すつもりはありませんでした。信じてください!」(ブタ三郎)
 「ラーメンを作るために熱いお湯が入った鍋を暖炉に置いていただけで、オオカミを殺すつもりはありませんでしたので、無罪を主張します」(弁護人)
挑発したことは認めたものの、本当に煙突からオオカミが入ってくるとは想定外だったなどとして無罪を主張しました。
 一方、検察側は被害者のオオカミに証人尋問を行いました。
 「被告人に対して今どのように思っていますか」(検察官)
 「いたずら半分で家に行っただけなのに大やけどをさせられてとても腹が立っています」(オオカミ)
 「被告人の責任は重く懲役5年にするのが相当であると思います」(検察官)

起訴状などによりますとブタ三郎はオオカミが自分の兄たちを食べたと言いふらしているのを聞き、かたきを討つため挑発して鍋に落とすよう仕向けました。 オオカミに全身やけどのケガを負わせたブタ三郎は殺人未遂の罪に問われています。

と記事には書かれていました。子供達は悩むでしょうね??
というより、人間は誰でも悩みます。大人も子供も然程知性は変わりません。
完璧な判決、完璧な判断、なんてものは大人も子供も誰も導き出す事はできないのですから。

記事は小学生の体験クラスのようでした。ロースクールと同様の仕組みですね。
こう言った授業が又日本でも見直され、増えていく事を願いますが、一番の問題は、こう言った授業や問題を出し、判断が難しいよね、で終わってしまう事です。話題になったトロッコ問題も然り。ただ単に「これって難しいよね」で終わっている現実が、個人的には好きじゃないですね。

人間には善悪を判断し、一つの完璧な正解を導き出す能力は備わっていないわけです。誰もこれが絶対的に正しく、これが絶対的に悪だと言える事はできないのですから。

又、ローゼンハン実験で証明されているように、人間は人間の心、精神を見抜くことはできないわけです。人間は嘘をつく動物、人間は矛盾を好む動物、人間は感情と理性を兼ね備えている動物、人間は善も悪も両方を抱えて生きている動物な訳です。善は時に悪になり、悪も時には善になりと、誰も絶対的善悪など判断は取れないのです。この事を多くの人間が認識すれば、人間がやれることが見えてくると思うのです。

この様なロースクール的な授業では、判断の難しさを経験させる事も重要ですが、「難しいな」で終わるのではなく、必ず判決を出し、控訴もし、最高裁の最終結論まで辿り着く現実のシステムを経験させることが、最も重要な事だと思います。全ての現実社会のシステムを小さい時から経験させ、考える教育を促せば必ずシステム改善が今よりもっとスピーディーに行われるようになると思います。人間ができ得ることは、システムの構築、改善を行うくらいなんですから。

この2千年以上人間は、判断による絶対的善悪を極めようと生きてきていますが、いい加減それは不可能である事を認めるべきだと思います。出口がない無限回廊を彷徨うのはやめて、無数にある正解や無数に生まれる嘘を、どのように処理すべきなのか?どのように処理を進めていけば今より社会は改善するのか、その社会的システムをもっともっと考えて手をつけて行くべきだと思います。

民主主義、社会主義どっちが正しい?と議論するのではなく、どのようにそのシステムやイデオロギーを使いこなせるか?資本主義はもう崩壊か?ではなく、さまざまなシステムをどのタイミングでどの様に駆使していけば、より良い社会に近づけるか?を議論すべきだと思います。人間が2000年以上も悩み考え導き出した理論や概念なんてものは、ある程度出し尽くされていると思います。今はその出し尽くされた理論や概念を基に、現実世界の仕組みがどうなっているのか?それは改善の余地はないのか?マイナスのネジ穴が空いているのに、プラスのドライバーでネジを外そうとしていないのか?なぜそんなにも時間や経費や手間暇がかかってしまうのか?なぜ多くの人間が声にも出せない涙に日々濡れているのか?なぜ人は対岸の火事に神経を注がないのか?なぜ社会は格差が発生するのか?なぜ多くのシステムが形骸化しうまく稼働していないのか?そういった事をもっともっと注目していくべきだと思います。

発生している諸問題をいくら議論しても、答えは「悪い面もあるが、良い面もあるよね」の答えしか待ってないのです。「それも正しいけど、反対意見も一理あるよね」としか導き出せないのです。

人間が戦争や殺人などを起こすのは、愛と言う本能があるからです。虐げられた人間を救おうと立ち上がった正義が、結果的に狂気と化し新たな殺人や差別を生み出すわけです。経済活動で物を沢山得る事は重要なファクターですが、喉も渇いていない人に水を売るのは無駄が多すぎます。雨が突然降ってきているのに、古いモデルだからと、傘を倉庫へしまう事がお店の来店数を増やす事になるのか?寒い冬だから、アイスクリームは不要だと安易に判断しても良いのだろうか?社会には数多くの需要が存在します。数が多すぎるから全てには対応できない。確かに正しいですが、だからといって「対応できない」と言う回答の理由にはならないはずです。いっぺんに対応はできないが、優先順位を決めて少しづつ対応していく事は可能です。多くの要望を聞いていたらキリがない、確かに側面的には正しいが、それは「やらない」理由にはならないんです。たとえ無数に要望があったとしても、対応しなければいけない問題は、対応しなければいけないのです。発想を切り替えて「どうすればできるのか?」「どうすれば効率も質も量も増やしていけるのか」システムを考えて実行していくべきと思います。

たとえそれが10年で終わらなくても20年30年と人間は継続して行動をとっていくべきだと思います。起きている時代の流れや問題のほとんどは、実は人間が作り出して発生させているんです。不景気だ!となるのは、不景気になるように人間が進んできた結果です。収入が増えんぞ!と思うなら、それはそうなるように人間が進んできた結果です。自分たちで問題を作り出し、大変だ大変だと騒いでいるようなものです。

絶対的正解が無いのに、それに囚われそれに注視し過ぎた結果です。
「何が正しい、何が間違い」、ではなく、どうすればより的確な判断がなされ、どうすればより的確な手法が導き出され、今は何をすべきか?と意識を向けるべきと思います。先人達が考え出した無数のアイデアを私たちは持っているのですから、その無数の道具の良し悪しを議論するのはやめて、無数の道具を整備して、見つけやすくして、使い方を学んで、TPOに合わせて「使いこなす」事を継続していく事が、人間にできるたった一つの事だと思っています。


いいなと思ったら応援しよう!