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いつかひまわりのあたし達 -aiko「ひまわりになったら」についての読解・解釈・考察と巨大な感情-(中編)

本記事は拙aikoファンサイト「愛子抄」に掲載された歌詞研究の転載です。
http://aikosyo.choumusubi.com/
長いので、前編と中編と後編に分けて転載します。
中編の今回は歌詞本編を読んでいきます。本編オブ本編。1万字越えてた。ひええ。自分が好きで書いているので、果てしなく長くなる。
前編に基本的なことを書いているので、目を通しておいてくださればと思います。

ある再会の物語

aikoが語った内容を頭に置きつつ、歌詞を読んでいくことにする。
(aikoインタビュー記事についても、前編を参照ください)

あたしの気持ち掘り返してみたら
あの子の事ばかり 涙が出る

物語は、あたしがある日偶然にあの子に再会するところからスタートしている。その前に置かれるフレーズ「あたしの気持ち掘り返してみたら/あの子の事ばかり 涙が出る」はまるで小説の冒頭、主人公がぽつりと語るモノローグのようだ。
掘り返す、とは言うものの、おそらくは現在も含めて、あの子と出逢ってからの自分の気持ちはただひたすらに「あの子の事ばかり」だった。涙が出るのだから今もまだその気持ちは尽きていないし、むしろ別れた所為で余計に募っていることだろう。
ずっとずっと、あたしの思い出の中には必ず「あの子」の姿が映っていただろう。この短い一節で、あたしがどれだけあの子のことを想ってきたか、今も思っているのか――いっそ重いくらい伝わってくる秀逸な箇所である。

逢わないうちに少し痩せたみたい
そのブルーの半袖いい感じね

そんなあたしが、ある日街中であの子と偶然再会する。
「逢わないうちに少し痩せたみたい/そのブルーの半袖いい感じね」――これはあくまで私の妄想だが、あたしは涙が出るくらいの自分の気持ちを必死に隠して、何てことないさっぱりした笑顔で「そのブルーの半袖いい感じね」と伝えているのではないだろうか。私はもう、大丈夫なんだよ。そう伝えるように……。

それは置いといて、あの子があたしから見て「少し痩せたみたい」と思わせるくらいの間はそこそこ長いのではないだろうか。二人がどれくらい間を置いていたのか、距離を取っていたのか。あるいは時間を示すのではなく、あの子があたしから離れたことで気落ちして、その所為で痩せてしまったのか……と、色々な憶測が出来るフレーズだ。
少し痩せた相手、と言うのは印象もどこか以前とは違って見える。それはつまり、ああ自分達は、二人は離れてしまったのだ、ということを思わせもするけれど、「ひまわりになったら」はそこまで突き放されている感じはしない。「そのブルーの半袖いい感じね」とあの子のファッションを褒めたりするのも、「別れたけれども、自分達はまだまだいい友達なんだ!」と新しい関係を、相手にも自分にも言い聞かせているような、そんな風に読める。

だがそれは同時にあたしの強がりでもある。先述した通り「この箇所のあたしはきっと、あえて笑顔で伝えているのだろうなあ」と感じ取るのだけれど、実際はそれどころではないくらいあの子のことをまだまだ想い続けていることは、次の段落でも明らかになる。

言えない、言わない、想いたち

Aメロ後半、おそらくは再会した帰りに自室に戻ってきたところが描かれる。

あの子とあたしの愛の巣に帰ってきたら
いろんな事思って涙が出る
靴下もズボンも何もかもなくなってて
ベッドに微かなあの子の匂い残ってる

「愛の巣」と言うくらいなのだから、おそらくは同棲していたレベルで深く付き合っていたことが察せられる。それならば、「明日の歌」の「あなたに貰ったものどうしてこんなに大事に置いていたんだろう」「今日も「話そうよ」って言ってくる」ではないけれど、部屋のあちこちにあの子の影がちらつくのもしょうがない。
しかし、帰ってくるのはあたしただ一人。あの子のものは何一つ無くなっているのに、形のない、見えない「あの子の匂い」だけが残っていることは何という皮肉だろうか。ベッドに残っていると言う表現が生々しくて良いし、悲しくて眠りの世界に逃げた時に香ってくる匂いが、ここにはもう戻らない「あの子」のものなのは痛烈だ。まるで死体蹴りでもされているような気になる。

そんなボコボコにされているあたしだが、それでも再会した時に気丈に振る舞っていたのは何故なのか。その理由が続くBメロに綴られている。

さみしいとか悲しいとかやっぱり言えなくて今日も
だけど夜を越えて逢いに来て欲しいけど
二人でしっかり決めた事だもの

ここでの「今日も」は、Aメロ前半で描かれた再会のことなのだと思われる。本当はやはり、「さみしい」「悲しい」をあたしは感じていた。もういっそ、「夜を越えて逢いに来て欲しい」とさえ思っているのだ。あたしはやっぱり、あの子のことを今でも、喉から手が出る勢いで欲している。

だが、その想いは「けど」と言う逆接でサビ前へと流れていく。あたしは張り裂けそうな想いを抱えながら、「二人でしっかり決めた事だもの」と歌う。自分が従うべきは自分本位の感情ではなく、別れる時にお互いが交わした約束なのだ、と自分に言い聞かせるように踏み止まっている。
それは――どんなに会いたくても会いに行かないということ、寂しいや悲しいを伝えないこと。同様に、会いに来て欲しいとあの子にせがまないことだ。それは即ち、二人が別々の道を行き、別々の人生を自由に生きることを保証する、お互いに干渉し合わない、と言うことでもあろう。

離れ離れで生きていく。二人で決めたそんな掟を守ることが、何よりもあの子への愛なのだ。自分の渇望をぐっと堪えられたあたしをよく頑張ったね、と思わず抱きしめてあげたくなるし、ついつい涙腺が緩んでしまう。まだ一番Bメロの段階でこれである。

Loveであり、friend あるいは

この曲を代表する特徴的なフレーズ「Loveなfriend」が登場するサビに移ろう。

あの子とあたしはLoveなfriend
離れてしまっても偶然出会っても
「久しぶり」って笑って言わなきゃ

このフレーズは、まさにAメロの再会を指しているように思う。

Loveなfriend。かつて付き合っていて、でも今は別れていて、しかしそれで終わりではない。まるっきり赤の他人になれるほど薄情ではないし、かと言って踏み込んだ関係を続けられるわけでもない。二番で明らかになるが、元々はただの友達だった二人は、濃密であり限られた関係である「恋人」を経た今、やはり「ただの友達」にあっさりと戻れるわけがないのだ。それはインタビューで「絶対に前みたいな二人には戻れない」とaikoが言っていた通りである。

微妙な位置関係の二人だが、Loveとfriendを経たからこそ偶然の再会にも「「久しぶり」って笑って言わなきゃ」と対応出来る。それは他人の振りをされるよりは幸せなことなのかも知れない。けれどある意味では酷なことでもある。恋人だった頃の二人を経て友人のままでいるのは、人によっては辛く感じるだろう。いっそきっぱり別れて無視を決め込まれた方が、気持ちもすっぱり無くせて幸せなのではないか……と感じる方もいるのではないか。と思うのだが、この辺は歌詞の解釈と言うより各個人の恋愛観の問題になってしまうので、この辺で終わっておこう。

あの子とあたしはLoveなfriend。恋人を経た友達。だから、偶然出会っても笑わないといけない。
本当は寂しい。悲しい。逢いに来て欲しい。逢いたい。好き。そんな気持ちが、今も以前と同じくらいある。
しかし、もうお互いを求め合わないことを二人で決めた。それを守ることが愛の表明になるのなら、いくらだって従う。――読み取るならば、こんな感じだろうか。

だからこそ気持ちを隠して、再会した時のあたしは笑っていたのだろう。まさに強がりだ。もしかしたらその複雑な気持ちは全てあの子にもそれとなく伝わっているかも知れない。あの子もそれをわかっているからこそ、あたしの本当の気持ちに気付かない振りをしたのかも知れない。なんと切ない二人だろうか。わがままで健気で残酷で、しかし確かに優しい愛の形をここに見出せたような気がする。

いつか咲き誇るひまわりに

サビ後半は、曲を象徴するひまわりが初めて登場する。

あの子とあたしはLoveなfriend
さみしい時はもちろん朝まで付き合うよ
あたしはいつまでもあの子のひまわり

おおーい、「さみしい」はお互い言わないんじゃないんかーい、と突っ込みたくなるが、ここら辺のニュアンスとしては、たまに電話やメールをしてくれたら付き合うよー、くらいの、まさに友達同士の範疇に留まる付き合いを示しているのだろう。

サビの締めであたしは「いつまでもあの子のひまわり」であることを歌うわけだが、実際ひまわり(aiko曰く「その人にとっての太陽」)になっているかどうかは、現時点では怪しい。そう思いたいだけなのかも知れない。何せタイトルも「ひまわりに【なったら】」なのだ。言うなれば、未完成のひまわりだ。
しかし「いつまでも」「ひまわり」でありたいと願えたのは、「恋人」を経たからこそだろう。恋人と言うものは、人によって程度はどうあれ一種の心の拠り所になる以上、軽視出来ない存在なのは言うまでもない。
今はどうか知らない。けれどあの子にとってあたしが確かに大切な存在――「ひまわり」だったのなら、loveなfriendの今も、少し変わった形での「ひまわり」でいられるのかも知れない。あの子もそれを望んでいて欲しい。あくまで一リスナーとしてそう思う。

何も知らないあの頃の

二番Aメロ前半こそ、「ひまわりになったら」のサビ中のサビだと思っている。これがあるのとないのとでは「ひまわりになったら」の印象は180度変わると言っても過言ではない。
暴言を許してもらえるなら「ひまわりになったら」の90%がこの前半に詰まっている、と筆者はわりと本気で思っている。もし音楽番組で歌うようなことがあって、しかし二番が削られようもんなら、私は深い嘆きと悲しみに沈み一週間は床に伏してしまうだろう。

それくらい、このわずか4フレーズはこの曲において特に重要なのだ。あたしとあの子が本来どのような関係だったのか。その過去の自分達を、現在にいるあたしは一体どう感じているのか。物語に大きな深みを与えてくれる回想シーンであり、「ひまわりになったら」における切なさとやるせなさは、ここに大きく起因していると私は強く感じている。

恋愛感情なんてこれっぽっちもなくて
今の二人が嘘みたいね
ただの友達だったあの頃に
少しだけハナマルつけてあげよう

以上が問題の歌詞であるが、この一連は恋愛関係なく、各々が持つノスタルジーに直結して、一定の年齢に達した人は容易に泣いてしまうのではないかと思う。それはさておき、ここから読み取れるあたしとあの子の関係を整理したい。

一番から何となく読み取れたことではあるが、あの子とあたしは本来、単なる友達同士でしかなかった。恋愛によって結ばれた時に初めてわかるお互いの内面や事情、生じる不協和音など全く知らなかった、今のあたしにとっては、遠い昔にいる自分達だ。
そんな「ただの友達だったあの頃」にいる自分達に何故ハナマルをつけるのかを考えると、なかなかに苦しいものがある。

恋人同士になって、しかし別れてしまった今、あたしとあの子は「あの子のひまわり」と歌うものの、決して近しい関係ではない。たとえ電話などで会話することが出来ても、会いには行けない。疎遠になってしまった、と言ってもいい。
それなら、あの子との恋愛において得られた歓びや感動を差し引きしても、何も知らない「ただの友達」だった方が、ずっとずっと近しくお互いの傍にいられて、なおかつ大切な存在になっていたのではないか。簡単に言うと、「あの子」を実質失っている今よりも、そっちの方がマシだったのではないか。それこそ、ハナマルをつけたくなるくらいには――と言うことである。

恋心を抱いて、それを相手に告白してしまい、一線を越えた関係になってしまったがゆえに齎された残酷な結末である。と言って、だったら、恋心を秘密にしたまま、ずっと何でもないフリをしてただの友達の関係を続ける……というのも苦しい。相手にパートナーが出来たと話されれば、その想いは成就されず死ぬ運命となるからだ(実にありふれた結末ではある)

告白するか。友達のままでいるか。どちらに進むか、究極の選択だった。
しかし選び取る時点で未来は見えないし、自分達の行く先は必ずハッピーエンドだと信じていた若さがあたしにはあるような気がする。
何より、想いをひた隠しにして友達のままを続ければ、きっとあたしの方がまいってしまっていただろう。楽になれて、かつ成就する可能性に賭けたあたしの気持ちはわかる。全ては結果論でしかないのだ。恋を生かす方向を選んだあたしは決して悪くない。

ただ、齎された結末はあまりにも切ない。と同時に、これ以上ない青春の恋の終わりでもある。何も知らないただの友達だった二人は、これからやってくる未来もまた知らずに無邪気なままでいて、あたしにとってはただただ愛おしく見えていたであろう。
「ハナマルつけてあげよう」――そうあたしが思うのは、自分への皮肉と言うよりも、二人が本当にただ愛しく、素晴らしく見えていた、そして、ほんのちょっとの悲しさ、そして切なさを抱いたからだと思いたい。
自分を客観視出来るようになったあたしが、あの頃よりも確実に「大人」になっているのを示す切ない描写としても、やはりこの段落は非常に秀逸である。

あの子はまだいる

曲調は明るいものの、次のAメロ後半がある意味ではこの曲の中で一番暗い段落のような気がする。前半の内容も受けつつ読み進めれば、なおのこと辛いものがある。

買い物に行ったら知らないうちに
あの子に似合うシャツ探してる
ふとした時に気付く虚しさとため息
誰か早く止めてよ

こういった経験をしたことのあるリスナーは非常に多いのではないだろうか。恋愛だけでなく友達関係や家族でもあり得る話だ。

あたしの中にあの子はまだ「いる」。しかし実際には「いない」。似合うシャツを探しても、好きな料理を作っても、あの子はもう、あたしの前にはいない。会いにも行けない。
「ああそうか、もういないんだ」と、不在を痛感して去来する虚しさと生み出されるため息が、ひょっとしたらこの世で最も悲しく辛いことなのかも知れない。最後の「早く止めてよ」は短いフレーズながら、絞り出された涙の一滴のようで強く私達の心に沁み渡る。aikoの歌い方は新旧どちらのバージョンでも苦しそうで、自然と涙を誘うのである。

なくてはならない人

二番Bメロは回想シーンが少し盛り込まれ、あたしにとってあの子はどういった存在なのか言及される。

あの子の前で死ぬ程泣いた
それが恥ずかしくなかった

このフレーズは、どれくらい前のことを指しているのか。ただの友達だった頃か、それとも恋人になった頃か。
いずれか定かではないものの、誰かの前で大泣き出来て、それを恥じていないと言うことは、それだけその人に心を許していると言うことにもならないだろうか。
もっと言えば、その人の前でなら、赤裸々に泣けてしまうほどありのままを曝け出した自分自身でもいられると言うことだ。そういった人は恋愛友情関係なく、広く「心のよりどころ」となって、それこそかけがえのない存在となることは想像に難くない。
だからこそ、次のように歌うのだ。

だからそうよあの子はあたしにとって
なくてはならないものね

「なくてはならない」存在。まさに太陽のような、ひまわりのような人。それくらいの存在と、しかし離れることになった。別れを選ぶことになった。それは――作者のaiko側の話だが、食も満足に出来ない状態になってしまってもしょうがない。

あの子の存在が、今でも自分の中にいる。虚しさとため息を「早く止めてよ」と苦しげに歌いながらも、改めてその存在を想い、「なくてはならないものね」とも歌う。
完全に忘れることは出来ない。想い続けることもやめられない。恋人同士を経て、ただの友達には戻れなくなったあの子とあたしは、お互いにどういう存在であればいいのか。
そしてもう一つ、あたしは、「なくてはならないあの子」を、恋人でも友達でもなく、最終的にどういった存在に定めればいいのだろうか。

いつまでも、あたしの

それはやはり、一番サビと同様に二番サビでも歌われる、「Loveなfriend」だ。

あの子とあたしはLoveなfriend
離れてしまっても偶然出会っても
「コンニチハ」って笑って言わなきゃ

サビでは一番サビとほぼ変わりない歌詞が綴られる。
とめどなく溢れる様々な感情や想いをひた隠しにして、あたしは「コンニチハ」と笑ってあの子と向き合う。ここから読み取れる想いもまた一番とほぼ同様だろう。
もしここで決壊してしまえば、掟を破ってしまえばそれこそ、二人の関係は今度こそ修復出来ない破滅を迎えてしまうかも知れない。ただの友達が恋人同士になった時とは違うのだ。二度目の別れなど経験したくもない。絶対的な別れだってごめんだ。言ってみればここが、あの子とあたしの終着点なのだ。

きっと強がった笑顔のままでサビは続く。

辛い時はもちろん朝まで付き合ってね
あの子もいつまでもあたしのひまわり

このくだりもまたどこか、強がっているような気がする。辛い時、なんて、虚しさとため息が尽きない今がまさに辛い時じゃないのか。
けれど、あたしはそんなことおくびにも出さない。もしかしたら次の恋愛で辛くなったら、と、そんな風な話なのかも知れない。そうだとしたらまさに強がりだ。冒頭に述べた通り「あなたのことばかり」なあたしに、次のことを考える余裕もないだろうに、この健気な姿は実に涙を誘うものである。

そして「あの子もいつまでもあたしのひまわり」と続き、二番が締めくくられる。
あの子。恋人であり、友達であった。だけど恋人ではなくなり、その結果、単なる友達でもなくなった。けれども「なくてはならないもの」と言うくらいに特別な存在だ。それこそ、世界に光を渡らす太陽のように。その化身のように咲き、人々に愛される向日葵のように。
だからあたしは、唯一無二のあの子の存在を、「あたしのひまわり」と、そう定義したのである。

私は二番Aメロ前半が「ひまわりになったら」のサビでありこの曲の90%がそこにあると書いたが、残りの10%のうちの5%が、この二番サビラストの「あの子はいつまでもあたしのひまわり」にあると思っている。もっと言うと、この曲は要約すればこのワンフレーズに尽きるもので、これまでの歌詞はこのフレーズを引き出す為の長い序詞であるようにも思う。

しかしながら、曲中にはこの一回しか出てこない。しかしかえって、それだけこの「ひまわりになったら」全体で「あの子はいつまでもあたしのひまわり」をひたすらに伝えていると言うことだ。
むしろタイトルに則って言うなら、一番サビのところでも書いたが、「ひまわりになったら」と言うタイトルに隠されている主語は「あたし」だ。「あたしはいつまでもあの子のひまわり」と言うフレーズがどこか言い聞かせるように繰り返されるのは、今はひまわりに――あの子にとっての太陽になれていなくても、少なくとも、あたし自身はそういう想いであり続けよう、ひまわりであろう、と言うあたしの意志の表明であろう。

それがあたしの選んだ、最良の道だ。あの子が自分にとってのひまわりなら、自分もひまわりでありたい。「あの子のことばかり」の「あたしの気持ち」も、いっそ養分にするくらいの勢いで隠し続け、あたしはひたむきに、ひまわりのように笑うのだ。

サヨナラのタイミング、わかってた

物語は締めくくりに向かい始める。

恋人同士になった二人色んな事を知ったの

Cメロは少し、トーンが落ちる。別れについて描かれる場面だからだろう。――きっかけが何だったか、はっきりしたことはわからない。恋人同士の頃もほんの少し、抽象的にしか描かれない。

いろんなことを知る。人を好きになるということは、その人のことを知りたい、と言うことで、付き合うと言うことは、友達同士では見えなかったことがどんどん見えてくると言うことだ。
それは良い意味でもあるし、悪い意味も含まれていよう。ただの友達だったあの頃では得られない歓びもあっただろう。感動もあっただろう。しかしそれと同じくらい確かに、恋人同士であることでお互いに掛かる負荷、と言うものは確実にあるはずだ。その中でお互いの価値観に何らかの齟齬が生じたのかも知れないし、もっと別のことかも知れない。いっそ二人が原因ではないのかも知れない。
ともかく、二人には明確な別れのタイミングが来た。来てしまった。それはこんな風に綴られる。

そしてサヨナラのタイミングさえ
しっかり覚えてしまったり

少し不思議な、ひっかかりを感じる書き方であるが、その決定的なタイミングが二人それとなくわかってしまうくらいに――それはあまりにも皮肉なことではあるが――二人の相性が良かった、と言うことではないだろうか。それを二人とも無視出来なかったのも、相性の良さ、呼吸の合う二人だと、そう感じる。

あの子はそのタイミングに抗わなかったのだろうか。あたしは――どうだろう。ひょっとすると「あの子の前で死ぬ程泣いた」ことはこの別れのタイミングでのことなのかも知れない。
どうであれ二人は「関係を持続させること」よりも「関係を終わらせること」の方に舵を切った。夏を越えて咲かせる為に、無理やりなことをして向日葵を腐らせるよりも、きちんと後に種を残し、時を越えて咲き続けられることを選ぶように。
それはやはり優しさと、相手との縁を捨てきれない、一種の人間臭さである。そうしてあの子もあたしも――無数の虚しさとため息と、あの子への気持ちを抱えながら――心の中で永遠に咲き続ける「ひまわり」の未来を選んだのだ。

少なくとも私には、痛々しい破局の仕方を取らなかったように読み取れる。そうしたのは、やはりあの子自身が、まるっきりあたしのことを全て嫌いになったと言うわけではなかったからだろうし、あたしのことを恋愛とは違う意味で愛していたからだと思いたい。歌詞に歌われる通り、あの子にとってもあたしはやはり「ひまわり」であったのだ。

ずっとずっと、いつまでも

Cメロでの歌声がまるで嘆きのように響いて、そのままキーが上がって大サビとなる。……いやほんと、特にインディーズ版のaikoここガチで泣いてませんか?ってくらい泣ける。なんでこの音源がインディーズ版なの……知らない人が広く聴けるようにして……。

あの子とあたしはLoveなfriend
離れてしまっても偶然出会っても
「久しぶり」って笑って言わなきゃ

一番サビと同じ歌詞を繰り返すが、Cメロの想いを引きずり、もう一緒になることは出来ない、どれだけ想っていても、自分達は並んで歩くことは出来ないんだ、と言う気持ちが込められているように聞こえて、強がって笑っていた一番サビよりもずっとずっと深く切なく悲しく響いていく。
それでもきっとあたしは涙を堪えて歌っているのだ。笑っているのだ。

あの子とあたしはLoveなfriend
さみしい時はもちろん朝まで付き合うよ
あたしはいつまでもあの子のひまわり

後半も同じ歌詞が綴られる。やはり言い聞かせるように、あたしはあの子のひまわりであることを歌う。
恋人でも友達でもないが、唯一無二のLoveなfriendである、その象徴としてのひまわりになるしか道はない。それが一番綺麗な着地で、一番整った解決法なのは先に述べた通りだ。
そして曲は、こう締めくくられる。

ずっとずっといつまでも あの子のひまわり

繰り返しとなるが、この曲のタイトルはあくまで「ひまわりになったら」だ。【なったら】なのだから、あたしは、今はひまわりになれていない。先述した通り未完成のひまわりである。
けれども、あの子が求めてくれるなら――求めてくれる日があればの話だが――いつだって、自分はあの子にとってのひまわりでいたい、そうなりたい。たとえ求めてくれなくても、あたし自身、あの子のひまわりでいたい。――そんな健気な想いを、これまでを俯瞰したうえで私は読み取りたいのだ。

勿論これはサビでこう歌っているからであって、ずっとずっと健気で殊勝な決意を抱いているわけではないと思う。未だあたしの中は「あの子の事ばかり」で、「いろんな事思って涙が出」て「さみしい」「悲しい」「夜を越えて逢いに来て欲しい」と言う想いがあって、「ふとした時に気付く虚しさとため息」に苦しんでいるのである。少し揺さぶれば一気に瓦解するような危うさの中に、あたしはいる。
けれどもそんな中で切なさを押し込めて凛と立ち、あの子のいない日常を生きていくあたしこそ、まさしく太陽に向かって咲き誇る向日葵そのものであるように思う。
――これは後年のaikoが描く、失恋を迎えても逞しく明日を生きていこうとする沢山の「あたし」達の、その芽生えの姿、原始の姿ですらあると、私には感じられるのだ。

やがて時が過ぎ、【なったら】ではなく、本当にあたしが「ひまわりになった」時が来たら、あたしはようやくあの子から離れ、別の道を歩んでいけるのではないだろうか。
それは一見ドライな別れと捉えられる。けれども見方を変えれば、ひまわりとなった互いを心に抱き、共に生きていくという意味でもある。恋や友情とは違い、しかし恋も友情も超える尊い関係を、あたしとあの子は離れたままで築き上げていくのだ。
私はそんな祈りを、大好きなこの「ひまわりになったら」に見出したいのである。



中編はここまで。後編は歌詞読みをもとに考察なのか何なのかまとまりのないあれこれを書き綴って、一応の着地点に向かいます。
何が少し長くなるだめちゃくちゃ長いやんけ。バカなのか。そうですね、aikoばかです。
もうちょっとだけ続きますが、お付き合いいただけますと幸いです。


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