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J R上野駅公園口〜追いかけたい人の背中〜


 小さい頃、母に何度か上野動物園に連れて行ってもらったことがあります。公園口を出るとすぐに広い横断歩道があり、渡ったところから広がる上野公園を進んでいけば見えてくる動物園までの道のりが、ワクワクして大好きでした。そして、本作の主人公でもあるホームレスの人たちを沢山見たのも、同じ道中でのことでした。近所の橋の下に一人で住んでいる男の人しか前例を知らなかった私にとって、公園に集合して暮らしている人たちがいることは衝撃でした。家族はいないのだろうか。いつも何を食べいているだろうか。雨が降ったらどうするのだろうか。どうして同じ境遇の人たちがこんなに沢山いるのだろうか。上野動物園に入園してからも、なんとなくソワソワとした気持ちを持ち続けたままでした。帰り道も、やっぱり同じ人たちがいて、動物園の記憶は彼らの記憶の間に挟まれる形で残るのです。お母さんに捨てられたら橋の下で暮らすのだと思っていた私にとって、ホームレスの人が沢山いるという事実は、それだけ自分も同じ境遇になる確率が高いということではないかと思われて、不安になったのを覚えています。そのため、実際に自分がホームレスになったらどうするかをとてもリアルに考えていました。

 ちなみにホームレスについての印象がとても強く残っている本がずっこけ3人組シリーズであったと思い、調べたらamazonにて発見しました。(とても懐かしいです……!)

https://www.amazon.co.jp/ズッコケ家出大旅行-ズッコケ文庫-那須-正幹/dp/4591085708

3人組が旅行先の大阪でホームレスの人たちと一緒に生活することになるお話で、食料調達方法などが書かれていて必死に読んでいました。

 寄り道をしました。自分がホームレスになったら場合を考えると同時に、「家を追い出されても生きていけるんだ」というのは自分にとって大きな精神的支柱でもありました。お母さんに捨てられても私はすぐに死ぬわけじゃないんだ、生きていけるんだと思うと、なんだか少し楽になれたのです。
 
 ですが、本作の主人公は捨てられるのではなく、一緒に暮らす孫の人生を犠牲にはできないと、自ら最後の場所を求め、上野までやってきます。
 私にとって、ホームレスになるのは自分で選ぶのではなく自分が選ばれないから強制的に直面する状態だと思っていました。積極的にその選択をする、そんな心理状態を私は理解できるに至っていません。私は、まだ今の状況から逃げられる選択肢をいくつか持っていて、誰にも見せない手札のように大事に隠しているからだと感じます。ホームレスになっても大丈夫と思いつつ、そうならないように、溶けないように必死になれる、消耗していない若さがあるだけなのです。

 そして、やはり私はどうしても自分に年齢の近い孫の気持ちで読んでしまいます。残された彼女は、いろんな手を尽くして祖父を探したでしょう。祖父の存在を、迷惑なんて思っていなかったでしょう。似ている姿をどこかで見かけたら、追いかけて行ったでしょう。でも、主人公は今まで身に付いてきた社会的な属性を捨て、通りすがりの人にとっては固有名詞を持たない「ホームレス」の一人になった。追いかけようのない人になってしまったのです。どこかで生きていると思い込んでも、その人が目の前にいなければやり切れません。この世にいるかも分からないからこそ、夢の中でさえも追いかけたい心境になったでしょう。追いかけたいのにどこにも見えない。でも、それは残された側のエゴでしかないのかもしれません。

 主人公は、平成天皇と同じ日に生まれた設定です。最後は東日本大震災まで、日本の現代史を追っている小説でもあります。そして、天皇制をこのような形でテーマにしている小説も、中々出会えないと思います。
 何度でも繰り返して追体験をしたくなる一冊です。

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